小説を言語学的に読んでみて分かったこと

お久しぶりです。この数か月色々ありまして。こちらの方が疎かになっておりました。何をしてたのかと言いますと、某大学の聴講生をやっておりました。なので、仕事ない日は大学に行っていたという感じです。(つまりは実質週休なしという状態。)

どんな授業を受けていたかと言いますと小説を言語学の観点から見ていくという内容ですね。小説って文学のイメージが強いかと思うのですが、言語学としての見方もあるんですね。その授業を受けて何となく文学と言語学の違いが分かってきたのでその違いを説明しようと思います。ちなみに読んでた小説は谷崎潤一郎著『細雪上巻』です。なので例は全て細雪で説明します。

先ず、文学について。これはもう一言で「作品に込められた主題と主題に対する作者の思想を探究する学問」かと思います。細雪を書いた時の谷崎先生は関西が好きだったらしく、主要キャラクターである蒔岡四姉妹は皆関西が好きと取れる発言をしております。つまり谷崎さんの言いたかったことの一つは関西やその文化が良いということ。そして、その良さが失われていくことへの警告のようなものなんだとか。

次に言語学について。言語学的に小説を読むということは「作者の思想を表すのに表現が適切か。適切でないならなぜそういう表現をしたのか。」ということ。細雪の舞台は関西の芦屋、神戸、大阪上本町あたりがメインな訳ですが、関西弁については谷崎さんちょっと特徴のある使い方をしています。例えば、関西特有の女性自称詞である「うち」を使う人物は一人しか出てこないという意外さ。何でそんな使い方をしたのか?という問を谷崎さんの思想との対比から導きだすんですね。

そう聞くと「ではその思想はどうやって確認するの?」と思うかもしれませんが、それは谷崎さん本人が書いている随想とかから判断するんですね。特に谷崎さんは『文章読本』という文章の書き方についての指南書みたいなのを書いているので、そういう思想や意識が分かりやすいものと比較するんですね。

こういうことを知ると、小学校の時の「皆だったらどう言うか考えてみよう」みたいな変に想像力を働かさせる授業とか、中学校の中途半端に文学的なことを教える授業って読解力向上には繋がらないのでは?と思えてきたりはします。

あと英語教育で文法等の理論偏重だったから話せるようにならないとかコミュニケーション能力が身につかないという意見もありますが、表現の形である文法を知らないでどうやって相手の言いたいことを理解し、自分の言いたいことを相手に伝えるのか・・・そんな疑問を抱いているこの頃です。

ところで、「文学や言語学って何のためにあるの?」という根本的な問いがあるとおもうのですが。それは「人間とは何か?」というテーマを考えるため。例えば、日本文学だとある事柄に関して日本人は何を思っているのかを考える訳ですね。対して日本語学だと表現に対する日本人の考え方とか生物としてのコミュニケーションの有り様とかを考えていたりします(発音とかって喉や鼻腔の構造の問題なので生物学的な訳ですね)。

あと比較文学とか対照言語学ってありますが、あれらも色んな国や地域の文学や言語学を研究して共通項があったらそれが全人類の法則性として捉えることができるので、文学や言語学というのはやはり人間を理解するためにあるというのが一つの柱ですね。

フォロワーさんに言語学クラスタが沢山いるのでツッコまれそうではありますが、書いてみました。




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