TVアニメ学校の怪談ふり返り④

今回は第4怪「死者からの鎮魂歌エリーゼ」と第5怪「血塗られた体育祭だっと!!」とのふり返り。何でまとめたかと言うと、第4怪が個人的に印象薄いので。多分、口裂け女事件の疲れが制作スタッフにまだ残ってたんだろうなと思っています。

いや、だって霊眠の呪文が「霊眠しなさい」ですよ。他の話しと較べて単純すぎやしませんか?

ただ、家の中とか街中が出てくることが多いので細かい配置とか覚えておくとファンの間で尊敬されるかもしれない話しではあります。

はい、では第5怪に話題を移します。第4怪と打って変わって文学的・言語学的に着目点が多い話しです。知らない人のために大雑把にストーリー説明すると「敬一郎が体育祭のカケッコで一等賞になるために毎日練習をする→一緒に練習してくれる上級生が現れる→体育祭で走っている人の足を取る「だっと」というお化けがいることが分かる→その上級生がだっとであり敬一郎の足を取ろうとしている」というものです。

学校の怪談の原作者である常光先生の考えによりますと、話しとしての学校の怪談が生れる理由というのは「学校という秩序がつくりだす緊張と子どもとの関係」に由来していると考えています。もっと具体的にいうと「やるせなさ」が原因だそうです。

要するに、学校という秩序は子どもたちにとって納得のいくルールではないのです。そのルールへのささやかな反抗として学校の怪談というものが存在すると。

そのため常光先生は子どもたちと学校の怪談との関係性について「子どもたちはつねに妖怪を身近に招きよせ、手なずけていることの表れなのだといってもよいだろう。彼らは妖怪に怯えながらも、じつはそれ以上に心のどこかで漠然と妖怪の出現を待ち望んでいるのである。」とも言っています。

この2点を意識して第5怪を見ると、「なるほど」と思う場面がある訳です。

例えば、雨が降ったので校長先生が体育祭を延期しようとした時に、さつきは「今日のために頑張ってきた子がいるのに」という理屈で校長に延期しないように直談判します(これは正論といえば正論)。しかし、4時44分になるとだっとが足を取りにくる時間なので、4時44分が近づくと今度は理由を説明せずに体育祭を中止するように直談判します(こちらは現実にいたら困った児童扱いされてしまいますよね)。学校の怪談があると、学校と言う秩序にわずかながら対抗できる理由となる。その良い例が第5怪な訳です。

次に第5怪がどんな終わり方をするかというと、だっとは敬一郎の足をとらずに飛んで行ってしまう(放送当時は「どこいくねんお前」って大笑いしたものです)。日本人の他界観として成仏=昇天では必ずしもないので、とりあえず物理的昇天と私は呼んでいたりしますが詳しいことは別の機会に。

敬一郎の方はだっとのことを最後まで一緒に練習してくれたお兄ちゃんと思っている訳で、カケッコで一等賞になって貰った金メダルを「僕とお兄ちゃんとでとった一番だよ」と言って金メダルを空に投げてEDに入るという演出です。

だっとが飛んで行った理由として敬一郎の純粋さにほだされたっぽい?というのがあるのですが、そうだとするなら敬一郎は見事にだっとを手なずけてしまっている訳です。一目みて「ええ話しやな」となるのですが、これが学校の怪談の話型としては理想形なのですよ。

さて話は少し変わるのですが、文学的・言語学的に見た時にもう一つ着目すべき点があります。それは桃子の「暴力のふるえない子に殴られたら殴り返せというのは酷」というセリフです。急に社会とか保護者へのメッセージのような内容がぶち込まれているのですが、こういうセリフは文学的・言語学的に創作物を見ていくうえで良い材料になります。

なぜかと言うと主題文だからです。日本語の主語を表す助詞って「は」と「が」とで二つあると思っている人が多いと思うのですが、実は違います。主語・述語関係を表す助詞は「が」だけです。「は」は主題を表し、文全体の中でその段落とか章において作者が言いたいことを表すのです。

今回のセリフは、子どもが悩んでいる時にはその子の性格にあった解決策を探すべきという意味合いだと思われます。学校の怪談と子どもたちとの関係性を描きつつ、教育論にも触れるという実に文学的な話しです。純文学を読んだ時に作者が何を言いたいのか分かりにくい理由の一つは、小説全体の主題に加えて章とか場面ごとでの主題があるという多重構造だからです。

なので、主語のあとが「は」なのか「が」なのかを意識すると創作物の見え方は大分違ってきます・・・そういう言語教育的にも使えるのが第5怪なのでした。


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