亡き友人の追悼の会へ

石坂篤君の訃報(2018年8月30日のnote)

死の報せから約2ヶ月。

亡き友人の追悼の会に、ほんの少しだけお邪魔してきた。
会場は、彼の行きつけのバーだった。
初めて足を踏み入れる空間であり、おそらくこんな機会でもなければ1人で立ち寄ることはない店だ。
もはや彼がこの世にいない今、彼の入り浸っていたという店を訪れる。彼の足跡を辿るような体験だ。

小さなカウンターバーは、初めてお会いする方々との邂逅と、思いがけない再会が入り交じり、不思議な空間となっていた。
おそらく参加者の中でも最も古くから彼を知っているのが私だろう。

多くの皆さんから「この数年の彼しか知らない」と聞いて、高校1年の彼を知っている私は、この中では異質なのだと気付いた。
私の中の彼に対するイメージは、高校から大学までで止まっている。その後の彼は、私が深く知らない未知の彼だ。

ここ数年の彼のことをもっと知りたかった。
ずっと昔から知っているのに、とうとう彼のことを何も知れないまま逝ってしまった。そんな気がする。

みんな彼のことをそれぞれ異なる面から見ている。異なる時間を共有している。人の数だけ、彼が存在している。
人は多面体だ。そして、どの角度から見た彼が正解であるということもない。すべてが真実の彼なのだ。

彼はたくさん酒を飲み、たくさん人と交流し、たくさん苦悩し、たくさん迷惑をかけ、たくさん幸せを味わって、この世を去った。
とても生きづらさを感じていたのだろうということは、強く伝わってきた。
とてつもなく不器用で、この世に適応しきれずに苦悩を抱えていたのだろう。
そういう彼の心の声を、もっと聞いてやりたかった。

そして、私自身のことも、もっと彼に語っておくべきだった、と思った。
彼は近いようで遠い存在だったので、仕事のこともプライベートのことも、そこまで踏み込んだ話はしていなかった。
それでも、会えば高校や学生の頃に戻ったかのように会話が再開される。だから、昔の仲間というのは面白い。会うだけで瞬時に当時に遡れる。タイムマシンのように。

彼に聞いて欲しかった悩みがあった。
彼に話してみようか、と漠然と思っていた矢先の突然の訃報だった。
とうとう話しそびれてしまった。

人間、いつ別れが訪れるかわからないから、やはり会うべき人には会っておいた方がいい。話すべきことは話せる時に話しておいた方がいい。
大切な人は、いなくなってから気付く。
そして、大切なことは、過ぎ去ってから気付く。

しかし、別れは新たに人とのつながりを生む。
彼が他界しなかったら一生出会わなかったであろう方々にも、この機会に会うことができた。
不思議だけど、死から始まる新しい人間関係もあるのだ。
死や別れは、終わりではなくて、始まりにもなり得る。

そのことが、せめてもの救いだ。

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