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「ムスビメ」大人になるということ① #せかじゅう

2022.12.18

#月代彩佳 活動10周年記念企画
『この世界に入って10年目になりました』
通称 #せかじゅう

ご来場誠にありがとうございました!
彩佳を慕う様々なパフォーマーの方々と出会えて
その表現に触れられて
とても充実した1日でした。

改めて、彩佳。
誘ってくれてありがとう!

このイベントが私にとって、今年最後のお芝居の現場でした。
1stも2stも、ダンス+歌+芝居の構成で
私は両部共にトリの演目を務めさせていただきました。

演じた作品は、二人舞芝居「ムスビメ」
~簡単なあらすじ~
仕事に行き詰っていた主人公サラは、ある日かつての自分が書いた日記を見つける。
読み返していくうちに、サラは自身の幼少期を思い出していく。
かつての友達…私にしか見えない女の子、ニコ。
忘れていた思い出、心の底に沈んでいた感情。
大人になるってどういうことなんだろう。

※二人舞芝居とは・・・彩佳の身体表現による無声芝居×私の有声芝居のコラボ。そこにKARUさんの生演奏が添えられました。


主人公「サラ」という役を演じさせて頂きました。
約45分…9.9割ほぼ一人でしゃべり続けるので
通常芝居よりも格段に疲れました(笑)
でも、とにかく…楽しかった。
劇場演劇とは違い舞台セットもない
照明効果も限られた舞台上で物語を魅せきる。
役者としての…表現者としての力量がこれでもかと試される演目で…
もう一度言いますが、楽しかった。

そして光栄でした。
これを“未往さんとやりたい”
と任せて頂けたことが。

彩佳との出会いは2020年の撮影会で
実は共演したことはないのです。
でも、お互いの空気?オーラ?からずっと
「この人とは何かを創れる」と感じていました。

とはいえ、ちゃんとしたお芝居をご一緒した事もない人に任せるのは、普通なら不安もあると思います。
それでも、信じて、期待して
任せて頂けたのがとても嬉しくて
絶対に応えたい!と心を燃やしておりました。

この脚本は彩佳が5年前ほどにやりたいと思っていた表現方法を元に、增井豪さんが書いてくださいました。
なんと、主人公サラは私をイメージしてくださったそうです。

脚本を最初に読んだときに、本当にびっくりしたのです。
”自分の実体験にすごく近い”という事に。

豪さんとは今回初めましてでしたし、彩佳にもこれから書くことは話した事がなかったので、本当にたまたまの偶然なのですが
サラの見ている世界がスムーズに想像できて、家でただ読むだけでも毎回涙が止まりませんでした。
本番も含めて、こんなになんのプラン…
というか、こう表現しようというスイッチなく
フラットな状態で感情が勝手に湧き上がるのは
初めて…だったかもしれません。

ここからはネタバレありで書いていきます。
配信もないので、いいですよね!←
あ、でも通販で台本買ってほしいので
ちょいちょい伏せますね!←
※後日通販するらしいよ

「ムスビメ」詳細なストーリー

簡単に言うと、主人公サラの大人の時間軸と、幼少期の時間軸が行ったり来たりする構成です。
大人のサラが、日記を読んだり、思い出の場所に行ったりして、過去を思い出していく。
幼少期の時間軸で出会うのは、森の主であるニコ。
ニコが本当に森の主なのか、イマジナリーフレンドなのかは、お客様の好きでいいと思います。
ニコは言葉を話すことが出来ないという設定なので、会話は全て身体表現で行われます。
これが、この作品の面白いポイント。
無声芝居×有声芝居のコラボ。
目に見えない繋がりを大切にした作品でした。

まぁ、これが最初は難しくて(笑)
ジェスチャーゲームで会話が出来ているわけではなく、サラにはニコの言っていることが伝わっている、という表現にするために…結構悩みました。
音声として、お客様に会話のキャッチボールを届けられるわけではない。
けど、どんな会話がされているかは伝えなきゃいけない。
中々に高度な事をしていた…と思います(笑)

作品の多くの時間は、幼少時の時間軸を演じました。
幼少期のサラにとって重要な設定は

「いじめられている」という事。

そしてサラはそのことを大人になるまで
自覚していないということ。

そんな女の子が、森で自分にしか見えない女の子と出会い、仲良くなって…別れる。
ザっとすっ飛ばすとこういう話なんですね←
色々は台本をお楽しみください!!

子供の芝居をしたわけですが
ただの子供ではなく
いじめられている事を自覚していない子供
というのが少し特殊でして。

でもこれも、特にこうしようって考えて演じませんでした。
むしろ幼少期の時の方が、プライベートの、素の小林未往に近かった。

え?そんなまさか。
って思いますよね(笑)

自分は、自己プロデュースの結果、周りから
しっかり者とか、気が強そうとか、真面目とか
まぁそんな感じのイメージが強いという自覚があります。

普段はしゃべり方とかも大分意識しています。
”誰しもが、誰かの前にいる時は何かを演じている”
そういうものだと思っていますが、まぁかなり、演じている派ですね。

私のプライベート、気が抜けた姿を知っている友人は
「未往は5歳児で完成して止まっている」
と言うのです。

幼少期の映像を見せた時に言われました(笑)
自分でもそう思う事が多いですね。
しゃべり方とか、言葉の区切り方とか
歩き方とか手の癖とか、発音の仕方とか
ものの感じ方とか、それの伝え方とか
感情が高まった時の泣き方とか。

色々あるのですが、まぁ子供サラは大分楽に演じていました。
それを大切にしようと、それだけ思ってました。
演じない、作らない
”あの頃の小さな自分をさらけ出そう”

この”あの頃”がどういうことなのかは、次の②で書きます。
大分プライベートに突っ込んだ…
センシティブな内容かもですが
大丈夫だよという方は②もどうぞ。

そういう小林も知りたいと思っていただける方に
楽しんで頂けたらなと。

ニコという存在。そして大人になるということ

上記に書いた通り、ニコはサラにしか見えない存在です。
いじめられていたサラにとって、初めてできた大切な友達。
その存在との別れが…サラが大人への一歩を踏み出した瞬間なのではと思います。

上手く説明できないのですが、この作品を演じるにあたり
子供が大人と呼ばれる存在になるってどういう事をいうのだろう?
と考えていました。

勿論、色々な要素はありますが
今作でいうならば
「自分の心の状態を自分で認識できるようになること」かなと。

書いた通り、サラは幼少期はいじめられている認識がありません。
②の記事で詳細に書くつもりですが、サラのような子供は
「肉体と精神の痛覚が心と繋がっていない」子供だと思っています。
自分がかつてそうでした。

「痛い」という痛覚は確かにあるけれど
心でそれを感じられないというか…
それを外に出す表現方法を持っていないというか
確かに心に生まれている「痛い」とか「悲しい」とかが
肉体と連携していないというか…伝われ。

決して無痛なわけではない。
転んだら痛いし、嫌なことがあったら嫌だなって思うけれど
そう感じている事が無自覚だったり、表現できない。
他人事であり、感じている自分をちゃんと認識できない。
我慢、ではない。認識をしていないから。

そんな子供のサラが、ニコとの別れで初めて
「寂しいこと」「今までずっと心が痛かったこと」を認識する。
初めてちゃんと泣ける。

大人になる要素ってそこなんじゃないかなって。
私たちも自分たちの状態を色々認識できるようになっていくから
「他人」を気にし、「我慢する」ことを覚え、そこで生きることを学ぶ。

上手く伝えられてないと思うけど…!
自分という存在を認識していくことが、大人という存在になる
一つの要素なんじゃないかって、考えるのです。

私が今やっと、大人っぽく生きていられるのは
自己プロデュースが上手いねって言われるようになったのは

”自分という存在を分析して認識していく”訓練をしたからだなって。


でもどれだけ大人らしくいようとしても、心の中には常に
”あの頃の私がいる”

話がごちゃごちゃですが、だから?
むしろ大人のサラの方が”演じよう”の気持ちが強かったです。
子供のサラはあの頃の私のままで、あの時の気持ちをそのままに。

ちゃんと子供に見えていたかな。


オチとかないです!
書いててまとまらなくなってきた!!(笑)

けど、どう思っていたか、とか楽しんで頂けたらいいな。

②に続く。

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