童話 老夫婦と孫の愛犬チロ

     一

昔、ある所(ところ)に、正也(まさや)という子がおりました。正也の生まれたお家(うち)は、あまり裕福(ゆうふく)ではありませんでした。兄弟が七人あって、男が四人。女が三人。この正也は上から三番目でした。ですから、いろんなことがあると、上からも下からも攻(せ)められて、つらい思いをすることが何度(なんど)もありました。それでも、正也は、決(けっ)して泣(な)きませんでした。それが、正也のたった一つの自慢(じまん)でした。

勉強(べんきょう)はあまりできませんでしたし、力も弱くてけんかしても勝ったことがなかったので、学校ではもちろん、自分の村に帰っても、小さくなっていました。みんなから、からかわれても、じっと我慢(がまん)の子でした。いまは、「いじめ」という言葉(ことば)がありますが、正也が子供(こども)のころは、そんな言葉はありません。でも、子供たちの間では、今と全(まった)くいっしょ。今でいう、いじめにあっていました。兄弟どうしで、きたえられていたからでしょうか、正也は同級生(どうきゅうせい)や年上の人からいろいろつらいめにあっても、いつも我慢していましたし、我慢できたのです。だから、本当(ほんとう)は強かったのかもしれません。

 

     二

正也は、中学校を卒業(そつぎょう)し、仕事(しごと)に行くようになりました。兄弟が多かったので、住(す)み込(こ)みがいいと、前々から自分で決(き)めていましたし、そのような働き口(はたらきぐち)が見つかったので、すぐその仕事に決めました。植木屋(うえきや)さんのお手伝(てつだ)いの仕事でした。自分にはなんのとりえもない子だと思っていましたので、親方(おやかた)から言われたことはしっかり覚(おぼ)えておいて、真面目(まじめ)に働きました。それはそれは、ほんとうに真面目(まじめ)に働きました。その様子(ようす)は、だれが見ても、感心するほどでした。何年か経(た)った、ある日、ある人が、

「およめさんをもらわないか」

と縁談(えんだん)(縁談というのは、結婚(けっこん)のお話のことです。)を持ってきてくれました。でも、そのころは、お金もないし、住(す)む家もないので、どうしてもそのお話に乗れませんでした。それきりになっていました。

それから、また、何年か過(す)ぎ、正也は二十二さいになりました。前に縁談を持ってきてくれた人とはちがう、別(べつ)の人でした。正也は、この時、少しはお金ができていましたが、相手(あいて)の女の人のことを聞(き)いて、びっくり。それは、大金持(おおがねも)ちのお嬢(じょう)さんだったのです。聞くなり、

「そんな、大金持ちのお嬢さんとは、とうてい、結婚なんぞできません」

正也はきっぱり、ことわりました。

それから、また、何年か後(あと)、正也が二十四さいの時でしたから、約(やく)二年後のこと。

また、同じ人が来て言いました。

「君(きみ)のことを見ていたら、結婚するなら、君しかいないよ。ぜひ、うちの親戚(しんせき)のあの子と結婚して幸せにしてやってくれよ。あの子も、まだお嫁に行かずに、君のこと待(ま)っているのだよ」

正也は、それでも、なかなか決心(けっしん)がつきません。親方に相談(そうだん)しましたところ、

「そうだな、相手は大金持ちの子だしねえ。迷(まよ)うだろうなあ。まあ、よく考えることだなあ」

親方も返事(へんじ)に困(こま)っていました。

「ただねえ、結婚はお金だけじゃないからなあ。最後(さいご)は、愛情(あいじょう)だからなあ」

それから、約三か月。また、その人が、

「そろそろ、決心がついたかな。もしも、今度(こんど)ことわられたら、もうこれきりにするから」

と言って、相手の子がまだ待っていることを告(つ)げたのです。

正也は、今度も決心がつきません。日ごろ庭の手入れに行っているお寺の住職(じゅうしょく)さん(住職というのは、お寺を守っているお坊(ぼう)さんのこと)に相談しました。住職さんは

「望(のぞ)まれて、結婚するほど、幸せなことはあるものか」

と、その時いろんな話をたとえにして、結婚をすすめてくれました。

それでも、大金持ちの大家(たいけ)のお嬢さんと結婚して、うまく行くわけがない。住職さんのすすめにも乗れませんでした。親と相談したくても、父はすでに亡(な)くなっていませんし、母も賛成(さんせい)ではありませんでした。

 

     三

そうこうしているうちに、夢(ゆめ)を見ました。夢の中で、女の人が出てきて、「結婚して下さい」

と言うのです。誰だ分かりません。かすかに思い出すのに、以前(いぜん)、庭の手入れに伺(うかが)った大金持ちの家で見た人に似(に)ています。はっきり、

「結婚して下さい」

と二度も言うのです。話を進めてくれた人から、相手の女の人が、どこの誰とも聞いていないのに、こんなふうに相手の女の人の顔まで夢に出てくるとは、と不思議(ふしぎ)な思いでいっぱいでした。

そこで、正也は、縁談を持って来てくれた人のお家(うち)を訪(たず)ねました。そして、夢のことを話し、相手の女の人のこともくわしく聞きました。そしたら、やっぱり、その相手の女の人は、庭の手入れに伺った家のお嬢さんであること、その時の自分の仕事ぶりを見ていて、

「この人こそ」

と決めたのだということ、なお、びっくりしたことに、縁談を持って来てくれた人は、親戚(しんせき)の人とばかり信(しん)じていましたが、実は父親で、一人っ子の娘(むすめ)が、次々と持ち込(こ)まれる縁談をみんなことわってしまって困(こま)っているということ、困りはてた父親が、しかたなく自分で縁談を持ち込んだということ、などが分かりました。庭の手入れの時は、家の執事(しつじ)さん(執事というのは、主人の考えを聞いて、そのとおりに家全体を切り盛(も)りする人で、その家では大きな権限(けんげん)を持っています。)が応対(おうたい)に出たので、主人(しゅじん)である父親の顔を知らなかったのです。娘さんの顔をちらっとだけ見たのですが、夢は正夢(まさゆめ)。そのとおりだったことも分かったのです。

 

     四

正也は、一大決心をして、とうとう、その女の人と結婚することに決めました。その人は保子(やすこ)と言いました。でも、周(まわ)りの大方(おおかた)の人は、

「とうてい、一年は持つまい。まあ、あんな、わがままな一人っ子。せいぜい三月(みつき)もしたら、逃(に)げて帰ってくるだろうなあ」

と噂(うわさ)したそうです。

結婚してすぐに、正也は、保子に言いました。

「いいか、よく聞いてくれ。わしは、貧(まず)しく生まれて、貧しく育った。ただの植木(うえき)職人(しょくにん)だけれど、決して人に頼(たよ)って生きてこなかった。これだけが、自分の自慢(じまん)。あんたは、大金持ちに生まれて、裕福(ゆうふく)に育った。大違(おおちが)い。でも、今後あんたの実家(じっか)に頼って生きていくことは、絶対(ぜったい)にしたくない。ひとたび、わしと結婚した限(かぎ)り、わしの考えに従(したが)って生きてほしい。決して実家へ、お金がないから助けてほしいなどと、言ってほしくない。これだけは、きっちり、守ってほしい。約束(やくそく)できるか」

と念(ねん)を押(お)しました。保子は、しっかり約束しました。

結婚前には周囲(しゅうい)からさんざん冷(つめ)たい目で見られていましたが、二人の結婚生活は貧しいながら幸せそのもの。誰(だれ)からも、うらやまれる四十五年間でした。

 

     五

ところが、不幸は、正也が七十さいの時に、突然(とつぜん)やってきました。二人共(とも)、としをとって、おじいさん、おばあさんになっていました。保子が頭の血管(けっかん)がつまって倒(たお)ました。のうこうそく、という病気です。何日かの、お医者さんや看護師(かんごし)さん、おじいさんの看病(かんびょう)がみのって、命は助かりましてが、それがもとで、認知症(にんちしょう)という病気になってしまいました。認知症というのは、頭の中にある脳(のう)がしっかり働(はたら)かなくて、考えたり、覚(おぼ)えたりするのが、うまくできなくなる病気です。何でもすぐに忘(わす)れてしまいます。それから、悲しい毎日が始まりました。

結婚して四十五年。おばあさんは、結婚初(はじ)めにした、おじいさんとの約束(やくそく)をしっかり守って、我慢(がまん)に我慢を重(かさ)ね、わがままを言わないように、わがままを言わないように、と、しんぼうしていたのでしょう。たえていたのでしょう。認知症になったので、ついつい生まれつきのわがままな性格(せいかく)が出てきました。おじいさんは、おばあさんが、長い間、我慢していたのかと思うと、かわいそうでなりません。それで、おじいさんは、なんとか、おばあさんのわがままを通してやりたいと思いました。度々(たびたび)のおばあさんのわがままにじっとこらえて、ぐちもこぼさず毎日毎日がんばりました。

おばあさんは、料理(りょうり)を作ったり、洗(せん)たくをしたり、そうじをしたり、そんなことは、いっさい自分でしません。おじいさんは料理が苦手(にがて)なので、毎日、出来上がった料理をお店へ買いに行き、食事の用意をして、おばあさんに食べさせました。食事の後は、かたづけをして、食器(しょっき)も洗いました。ふろやトイレのそうじもしました。おばあさんが、よくトイレをよごしましたが、それでも、だまってきれいに、ふき取りました。

ある日、冷蔵庫(れいぞうこ)の冷(れい)とう室を見て、びっくりしました。同じ材料(ざいりょう)がいっぱい。ところせましとつまっていたのです。それを見たおじいさんは、おばあさんの認知症がのうこうそくという病気の後に現(あらわ)れたとばかり思っていたのですが、実はそうではなく、もっと早くから出ていたことに、初めて気づいたのです。おじいさんは、もっと早く気づいてやればよかったのにと、残念で残念でなりません。ずっと自分を責(せ)めました。

認知症をなんとかしてやりたい。その一心で、いろんな医院(いいん)や病院へ連(つ)れて行きました。病院の先生のすすめで、大学病院へ行ったおかげで、知能(ちのう)といって考えたり覚えたりすることは治(なお)りませんでしたが、運動(うんどう)能(のう)といって体を動かすことは、少し回復(かいふく)しました。ちょっと歩くだけでも、すぐにころんで、度々けがや骨折(こっせつ)をくりかえしていたのが、近くならシルバーカーをついて、自分で行けるようになりました。二人の喜びは、天にものぼる気持ちでした。大学病院の先生はもちろん、お世話になった先生がたに感謝の気持ちを伝(つた)えたいと、おじいさんは長い長いお礼状(れいじょう)を書きました。

運動の方は、こうして大分よくなりましたが、知能(ちのう)の方は、もうどうにもなりません。気力(きりょく)がなくて、

「なんにもしたくない、なんにもしたくない」

が口ぐせ。料理も、そうじも、洗たくも、家事(かじ)は、何から何まで、みんなおじいさんの仕事。そんな毎日が六年続いていました。

谷崎(たにざき)潤一郎(じゅんいちろう)という作家(さっか)に『しゅんきんしょう』という作品があります。その中に、佐(さ)助(すけ)という人が出てきます。まるで、そっくりだと思いました。そのとき、いつも

「佐助さんは、ずいぶんえらい人だったのだなあ。自分はとうていあんなにはしてやれないなあ。でも、少しだけでも、みならわなくては」

と、いつも、思い直しました。

実を言うと、おじいさんは、おばあさんの生まれ育った家が、大金持ちだということは知っていましたが、どれほど豊(ゆた)かな生活だったかは、まるで知らなかったのです。先にも書きましたが、執事(しつじ)さんがいることだけは知っていましたが、それだけでなく、こまごまとした雑用(ざつよう)をする男の人が三人、いっぱんに女中さんと呼(よ)ばれる女の人が四人もいました。このことは結婚して、おばあさんの話で初めて知ったのです。ですから、お父さんもお母さんも、料理や洗たくはもちろん、そうじなど家事は、いっさいすることはなかったのです。まして娘は、もちろんです。おじいさんが、

「たまにも自分で身(み)の周(まわ)りくらいそうじしてみたら」

と声をかけると、

「そうじなんぞ、あなたの仕事でしょう」

という返事。おじいさんは、家の小づかいか、めしつかい、と思っている、そんな感じでした。結婚前の娘時代にもどってしまったのでした。

幼い時から、家庭(かてい)教師(きょうし)が何人も自宅(じたく)に来て、それぞれが専門(せんもん)の教科(きょうか)を教えてくれていたそうです。勉強ができるのは、あたりまえ。できなかたら、おかしいくらい。学校では、いつも一番。運動をしても、いつも優(すぐ)れていました。走っても、とんでもです。中学生の時は、バレーボール部のキャプテンをしたり、ダンス部のキャプテンをしたり、勉強も運動も何かにつけて優れ、注目の的(まと)だったそうです。

そんな何かにつけて優れていた人が、すっかり変(か)わって、こんな人になってしまうなんて。おじいさんにとっては、たえられない気持ちで過(す)ごした六年間でした。

 

     六

おじいさんとおばあさんの間には、一人っ子の娘があって、すでに結婚して外国に住んでいました。この娘も、おばあさんの良い所を受けついで、勉強にも運動にも優れ、立派(りっぱ)な成績(せいせき)で大学を卒業(そつぎょう)して、外交官(がいこうかん)(外交官というは、他の国の同じような役目の人と話し合って、日本にもその国にも、どちらにも都合(つごう)がよいように物事を進めたり、その国にいる日本人を守ったりするのが仕事の人です。)と結婚していました。夫婦(ふうふ)の間に、また一人っ子の娘があり、名前は道子と言いました。外交官の父親の任地(にんち)(勤(つと)め先(さき)の国)が変わって、次の任地はアフリカに決まりました。ただ、その国は平和でなく大人(おとな)でさえ、さらわれて、身代金(みのしろきん)を出せと言われる事件(じけん)が何度も起こっていました。そのため、このたびの任地(にんち)へは、親子三人で行かず、道子だけは、日本で暮(くら)すことになりました。そんなわけで、道子はおじいさん・おばあさんといっしょに住むことになりました。

道子は、帰国(きこく)子女(しじょ)ですから、日本の高等学校へ入るには、編入(へんにゅう)試験(しけん)を受けなければなりません。幸い、学区の中で一番成績(せいせき)のよい高等学校に編入できました。二年生です。

このように、孫(まご)がさびしい生活になったので、おじいさんは、どうしてやるのがよいかと、いろいろ考えていたところ、道子が犬を飼(か)いたいと望(のぞ)みました。おじいさんは、以前に犬を飼(か)ったことがあり、犬を飼(か)うことがどんなに大変か、よく知っていました。雨の日も、風の日も、暑い日も、寒い日も、散歩(さんぽ)に出なければなりません。犬が病気をした時は、夜も眠らずに看病(かんびょう)しなければなりません。おじいさんは、自分のとしと、元気度を考えれば、無理(むり)かもしれないと、思いましたが、かわいい孫のために決心したのでした。希望(きぼう)どおり犬を飼(か)うことになりました。

 

     七

近くのペットショップで生まれたばかりのメスのヨークシャテリアを買いました。道子が『チロ』という名前をつけました。どこの家でも犬の世話をするのは、ほんのしばらくだけで、後はほったらかしということが多いもの。チロの世話がおじいさんに回ってくるかもしれない、と心配していましたが、道子は、決してそんなことはありません。毎日早く起きて、チロを散歩(さんぽ)させて食事をあたえ、それはそれは、心をこめて世話をしました。昼の散歩だけは、おじいさんの仕事でしたが、夕方の散歩も食事も、そのほかこまごまして世話も、ちゃんとやってのけました。立派なものです。だからチロも道子によくなついて、学校へ行く時以外は、いつもいっしょでした。もちろん、夜眠る時もです。おじいさんにとって、何の心配もありませんでした。

 

 

     八

やく二年が過(す)ぎて、道子は大学へ進むことになりました。父親は法(ほう)学部(がくぶ)を卒業(そつぎょう)し、外務省(がいむしょう)(外務省というのは、外国との交わりのことをあつかう国の役所のことです。)に入って外交官(がいこうかん)になりましたが、道子は医学を志(こころざ)していました。おばあちゃんの姿(すがた)を見ていて病気で困(こま)っている人の助けになりたいと思ったからでした。うれしいことに第一(だいいち)志望(しぼう)(第一志望というのは、一番望んでいる所(ところ)のことです。)の東京の大学の医(い)学部(がくぶ)に合格(ごうかく)しましたので、三月の終わりころから、下宿(げしゅく)することになりました。

そんなわけで、チロの世話はおじいさんの仕事になりました。

初(はじ)めのころ、チロは道子がいなくなって、さびしてしかたありません。毎日毎日、くんくんと泣(な)いて、おじいさんのあたえる食事も食べないでいましたが、一週間ほど、すると、道子がチロに言ったことが、やっと分かったのでしょう。おじいさんにもなついて、食事も食べるようになりました。おじいさんも一安心(ひとあんしん)。今度は食事だけでなく、散歩やそのほか、こまごました世話も何もかもみんな、おじいさんがしてやりました。病気の時は夜も眠ないで看病(かんびょう)してやりました。チロも、すっかり、おじいさんっ子になりました。夜眠る時も、おじいちさんの近くで眠るようになりました。

五月の連休になり、道子が帰省(きせい)しました。たったの三日だけでしたが、チロのうれしがりようは、すごいもので、おじいさんは思いました。

「犬は三日飼(か)えば、三年恩(おん)をわすれない」

って、言うけれど、ほんとうだなあ。このうれしがりようは、ほんと、すごいよ。道子が東京へ帰ると、今度は、また、すぐにおじいさんっ子にもどりましたので、安心でした。

 

    九

七月になり、間もなく大学も夏休み。道子が帰るのも、そう遠くない、と思っていた矢先(やさき)のことでした。いつものように、チロと散歩に出ましたが、おじいさんは、少しつかれたなあ、と思いながら、歩いていると、急に目の前が暗くなって、ついに真(ま)っ暗になりました。もう、おじいさんは自分では何も覚(おぼ)えていません。チロがはげしくワンワンとほえるのを、聞きつけた近所(きんじょ)の方が、救急車(きゅうきゅうしゃ)を呼(よ)んでくださったのだそうです。その救急車(きゅうきゅうしゃ)の方が、チロに

「かしこい犬だなあ。おじいさんは病院へ行くからね」

と声をかけてくださったそうです。家へ帰っても、おばあさんは、認知症(にんちしょう)なので、ことがよく分かりません。チロは、救急車(きゅうきゅうしゃ)の方の言葉(ことば)を、思い出したのでしょう。一人で病院まで、かけて行きました。おばあちゃんが通(かよ)っている病院しか知りません。でも、その時は、いつも、おじいさんが車で送りむかえし、チロもいっしょに乗って、窓(まど)から外を見ているのが習慣(しゅうかん)になっていたので、道順(みちじゅん)は覚(おぼ)えていたのでしょう。迷(まよ)いながらたどりついたのか、真直(まっす)ぐ迷(まよ)わずにたどりついたのか、それは、分かりません。いつもの病院のげんかん前に、チロがちょこんと座(すわ)って、おじいちゃんを待っているのを、病院の方が見つけて、人の通らない病院の横へ連(つ)れて行ってくださったとのことです。おじいさんの、運ばれた病院が、ここなのかどうかも、分らないのに、まる二日間、何にも飲まず何も食べずに、じっと待っていたようです。病院の方が、チロの首輪(くびわ)につけていていた登録(とうろく)証(しょう)を調べてくださったので、チロがおじいさんの犬であることが分かり、おばあさんに知らせてくださいました。近所(きんじょ)の方が、なかば無理やりにおばあさんの所に連(つ)れもどしてくださったそうです。

その次の日、おじいさんは退院(たいいん)して、自宅に帰りました。そして、倒(たお)れた時のこと、チロのことなど、いろいろ聞いて、チロのかしこいのにはおどろきました。でも、本当のことを言うと、おじいさんの入院(にゅういん)していた病院は、チロの行った病院ではなく、もっともっと遠い病院でした。

だから、チロのかしこいのには、びっくりしたものの、これは、チロにちゃんと言って聞かせておかないと、今後また同じことが起こってはいけない、と思いました。

「チロ、よく聞いておくれ。病院はチロが知っている病院だけだはないのだよ。ほかにも、いっぱいあるのだよ。だから、もしも今後おじいちゃんが倒れても、いつもの病院へ行ってはだめだよ」

チロが理解(りかい)できたかどうか分かりません。

おじいさんは早速(さっそく)チロがお世話になった病院へ行き、お世話になったみなさんに心からお礼を言いました。みんな、チロのことをほめてくださったけれど、おじいさんは今後のことが心配でなりません。病院の人のお話から、自分が倒(たお)れた時間とチロが病院にいた時間を考え合わせると、チロは余(あま)り道を迷(まよ)わずに、三〇分ほどで病院にたどりついていたことが分かりました。少しは安心しましたが、それだけが救(すく)いでした。

おじいさんは、

「もしも自分が倒(たお)れたら、この家はいったいどうなるのだろう」

前々から心配していました。現実(げんじつ)にこうなってみると、いっそう心配になるのでした。実は、チロはもちろん、おばあさんんも、この間ほとんども何も食べずに過(す)ごしたようでした。

 

     十

夏休みになって道子がまた帰省(きせい)しました。チロは大喜(おおよろこ)び。道子のそばをはなれず、楽しく過(す)ごした二か月が終わり、道子は東京へもどりました。暑い夏が終わろうとしていました。そんなある日、おじいさんがまた具合(ぐあい)が悪くなりました。暑さがこたえたのと、おばあさんの介護(かいご)につかれたのと、チロの世話が重(かさ)なったからでしょう。今度は、しんきんこうそくといって、心臓(しんぞう)の血管(けっかん)がつまる病気でした。今度も救急車(きゅうきゅうしゃ)に来てもらって、病院へ連(つ)れて行ってもらいました。

チロには、

「病院へ来てはいけないよ」

と、話してから、救急車(きゅうきゅうしゃ)に乗せてもらったのですが、チロに通じたかどうか分かりません。そのうち、おじいさんは、意識(いしき)を失(うしな)ってしまいました。おじいさんの病気は重く、そのまま亡(な)くなりました。

でも、チロは、そんなことは分かりません。救急車(きゅうきゅうしゃ)が行った後、またすぐに前の病院へかけて行って、げんかん前に座(すわ)っていたそうです。今度は病院の方が、すぐに気づいて、おばあさんに知らせてくださったのですが、認知症(にんちしょう)のおばあさんには、話が通じません。おじいさんが亡(な)くなってパニックになり、いっそう、おかしくなっていたのでしょう。最後(さいご)は病院の方が自宅まで連(つ)れて来てくださったのです。

そうぎ屋さんのお世話で、おじいさんの遺体(いたい)が自宅に着くのと、チロが自宅に着くのと、ほとんど同じころでした。

チロは、布団(ふとん)にねかされた遺体を、ぺろぺろとなめ続けて、はなれません。周(まわ)りの人がやめるように言っても聞きません。どうにかして、おじいさんの病気を治(なお)してやろう、と一心のようでした。おじいさんが、死んでしまったことを理解(りかい)できないのでしょう。チロが病気の時、おじいさんが夜も眠らずに看病(かんびょう)してくれたことを、思い出したのでしょうか、二時間も三時間もなめ続けました。でも、生き返るわけがありません。最後(さいご)には、あきらめましたが、もうとっくに夜おそくなっていました。

周(まわ)りの人が食事の準備(じゅんび)をしてくださっても食べません。

「せめて水だけでも」

と、すすめてくださっても、いっこうに見向きもしません。

不運(ふうん)なことは重なるもので、そのころ、むぼう運転の人の起(お)こした事故(じこ)にあった道子は、意識(いしき)不明(ふめい)の重体(じゅうたい)。また、両親の行っている国では内戦(ないせん)がはげしくなって空港(くうこう)が閉(とざ)されて飛行機(ひこうき)が飛(と)ばないので帰国できません。おばあさんは認知症(にんちしょう)で何も分かりませんし、何もできません。道子も両親もいないので、自治(じち)会長(かいちょう)はじめ、民生(みんせい)委員(いいん)、ケアマネジャー、住職(じゅうしょく)、近所(きんじょ)のみなさんが、そうぎ屋さんと協力(きょうりょく)して無事(ぶじ)そうぎを終えてくださいました。おばあさんは幸い施設(しせつ)に入れることになりました。

チロは親切な近所(きんじょ)のおばさんが引続(ひきつづ)いて飼(か)ってくださるつもりで、チロにそう言ってくださっても、チロは決して、いっしょに行きませんでした。食事はもちろん水も飲みません。きせき的(てき)に意識を回復(かいふく)し事情(じじょう)を知った道子が、あわてて二週間後に帰省(きせい)しましたが、その時にはチロは息(いき)絶(た)えて冷(つめ)たくなっていました。チロは、おじいさんとは、永久(とわ)の別れをしたものの、こいしい道子の顔を見ることなく、たった一人、旅立ったのでした。

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