李陵と蘇武


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紀元前一世紀初め、中国・前漢武帝の治世のことです。李陵という若い武人がいました。
彼の祖父・李広は、武帝の二代前の文帝から、次いで景帝にも、さらに武帝と、三代の帝に仕えて数々の功績を挙げながら、最期は自刎した悲運の武人でした。李広は弓術の名手で、虎と見誤って岩をも射抜いたけれど、岩だと判ってから再度射た時には射抜くことはできなかったという有名なエピソードの持主です。過去に匈奴と七〇回以上も闘って地理は熟知していたものの、前軍将軍でありながら大事の合戦で不覚にも道に迷ったことを恥じ、部下をかばって自剄したのです。『蒙求』には「李広成蹊」の項に登場しています。『蒙求』とは、李瀚(りかん)が著した中国の子供用テキストですが、「勧学院の雀は蒙求を囀る」とまで言われたとおり、日本でも古来、親しまれた故事逸話集です。
李陵の父・李当戸は李陵が生まれる数か月前に早世したので、李陵は遺腹の子ですが、李陵は、祖父譲りの馬上からの射術に長けていました。部下を優しく可愛がるほか、常に謙虚だったので、周囲の評判が非常によかったようです。武帝は、そんな李陵を祖父の気風を受け継ぐとして高く評価し、建章監(建章宮護衛隊長)に任じていました。李陵は前述の『蒙求』に「李陵初詩」の項に出ています。

こんな紀元前のことが記録されているなんて、文字の力は凄いです。文字のない頃は、縄の結び目の違いによって意思を伝達したり記録したりしていたとされていますが、中国では黄帝の吏官であった蒼頡(倉頡とも書き、そうけつ そうきつ、とも読みます)が、鳥や獣の足跡をヒントに象形文字を考案したという伝説があるようです。これが漢字の始まりであることは確かです。この伝説は既に戦国時代にはあったようですが、黄帝も蒼頡も、その詳しい年代は明らかではありません。
漢字発祥の年代が明らかでないにしても、中国では紀元前六世紀から同五世紀にかけて生きた孔子のことまで記録があり、素晴らしいと思っています。日本では紀元二、三世紀の「ヤマタイコク(私自身はヤマトコクと読むべきではないかと思っています)」や「ヒミコ」のことさえ、まったく記録がなく、中国の魏志倭人伝に依らなければならないのと大違いです。
ただ、私個人の印象としては、漢民族は自惚れが極めて強くて、その政権は以前から、漢民族以外の異民族を常々蔑視していました。それは、今日でも同様かと思われます。
「中華」という語は、自分たちは世界の中心だという意味ですから、それを端的に表していると思っています。「夷蛮戎狄(いばんじゅうてき)」とか「東戎西夷(とうじゅうせいい)」という四字熟語があります。これは、漢民族以外の異民族を蔑視した典型的な語です。中華思想で自分たちに従わない異民族を、東夷、北狄、西戎、南蛮と呼んで、「四夷(しい)」あるいは「夷狄(いてき)」と総称していました。羈縻政策(きびせいさく)という伝統的な異民族統治政策がありました。羈は馬の面懸(おもがい)、縻は牛の鼻綱(はなづな)のことです。まるで馬や牛と同然です。魏志倭人伝によれば、日本のことを「倭」と呼び、ヤマタイコクを「邪馬台国」、ヒミコを「卑弥呼」の字を充てるなど、これも同根かと思います。次に述べる北方異民族を「匈奴(キョウド)」、後には「蒙古」と呼んでいました。チベットのことを「吐蕃(トバン)」の字を充てているのと、まったく同じ。失礼千万、このうえないものと思っています。

日本でも、それに倣ってか、過去に「蝦夷」や「征夷大将軍」はじめ「尊皇攘夷」、「南蛮」、「蕃書調所」、「奴隷」とかの語を使用してきましたし、「南蛮」の語は今でも使用されています。反省しなければならないと思います。

それはさて置き、当時は、特に北方異民族である匈奴と敵対しておりました。先に秦の始皇帝が万里の長城を築いたのも、その一環です。
血気盛んな李陵は、紀元前九九年、当初は輜重隊長として糧食・衣類・武器などの軍需品を運搬する任務を命じられていました。言わば陰に隠れた任務です。しかし、それに不満で自ら志願し別動隊として匈奴と前線で戦う許しを得ました。騎都尉に任命されたものの、あてがわれた兵はたったの五千。しかも歩兵ばかり。騎馬兵は一切含まれておりませんでした。「本隊である弐師将軍李広利の軍を助けよ」と武帝に命じられて出陣しました。
結果は、予定の本隊との合流を前に、匈奴の単于率いる三万の軍勢と遭遇し戦闘に入りました。単于とは、呉音では「ぜんう」、漢音では「せんう」と読み、匈奴など北アジア遊牧国家の初期の君主のことです。相手方は騎馬兵ばかり三万、自分たちは歩兵ばかり五千で、戦う前から勝敗は明らか。それにも拘わらず、李陵軍は圧倒的多数を相手に八日間激闘し、匈奴の兵一万を討ち取ったと伝わっています。最後は矢尽き刀折れ、やむなく降伏、捕らわれの身となりました。
李陵が匈奴に降伏したと伝え聞いた武帝は激怒し処罰を決意しました。群臣も李陵の処罰に同意しましたが、『史記』を編纂中の司馬遷ただ一人「李陵ほど数少ない兵員で善戦した者は過去にない。李広利こそ匈奴の別動隊と戦って大敗して多くの兵を失い逃げ帰った」と李陵を擁護、処罰に反対しました。しかし、結果的には、李陵は処罰されるところとなり、武帝の逆鱗に触れた司馬遷も投獄されてしまいました。司馬遷は後に「死刑か宮刑を選べ」と命じられます。宮刑とは、男性器を切除される刑で恥辱の最たる刑とされており、ある意味では死刑よりも重いとされていました。しかし、司馬遷は敢えて、その辱めに耐え、宮刑を選んで生き延び、父からの遺業である正史『史記』編纂を完遂させました。正史の使命である真実の記載を全うしたのです。

因みに、日本の偉大な歴史作家・司馬遼太郎は、この司馬遷を高く評価して、自分のペンネーム「司馬遼太郎」に「司馬遷に遼かに及ばない日本の男児」の意味が込められていると語っております。

その後、武帝は後悔し李陵を再び迎えるため、当時の匈奴の単于・且鞮侯の許へ部下を派遣しましたが、適いませんでした。それどころか「李陵が匈奴に寝返って漢軍の情報や軍略を漏らしている」という偽りの情報に接して、再度、激怒。李陵の妻子はもちろん、祖母、生母、兄と兄の家族、さらに従弟一家らを殺戮しました。
真実のところは、李陵は匈奴の単于・且鞮侯にその人柄を気に入られて、部下になるよう度々誘われていましたが、決して同意せず武帝への忠誠を続けていたのです。漢軍の情報や軍略を漏らしていたのは、匈奴に先に帰順していた将軍・李緒のことで、誤報だったのです。
一族みんなが殺戮されたとの情報を得た李陵は、その李緒を自ら殺害したそうです。それを知った単于の母が李陵殺害を計画したため、単于は李陵を北方に匿ってくれました。単于の母の死後、李陵は内地に戻され、後に単于の娘と結婚して子を儲けました。そのような経緯があって、李陵は単于のかねての要望に応え匈奴の右校王となり、匈奴のために多大な貢献をしたとあります。紀元前七四年に没しましたので、匈奴での生活は約二五年間に及んだことになります。

ここで、一旦、お話を転じ、蘇武のことを記しましょう。
蘇武は李陵と同期で、共に武帝に仕える仲の良い年来の友人でした。その蘇武は李陵が捕らわれの身となった翌年の紀元前一〇〇年、匈奴との和睦と捕虜相互返還を目的に、武帝からの勅使のしるし・節を携え使者として匈奴へ派遣されました。
その際、匈奴の内紛にも絡んで、副使として同行していた張勝の容認のもと、既に匈奴に降っていた虞常が匈奴の緱王と共謀し、単于の母を脅迫して漢への帰還を画策しましたが失敗。蘇武は単于による尋問に先立って自決を図りましたが、幸か不幸か、介抱されて命を取り留めました。
それが苦難の始まりでした。
単于は度々匈奴への帰順を迫りましたが、蘇武は頑なに拒否しました。先に匈奴に留まっていた李陵が蘇武に匈奴への帰順を勧めましたが、やはり応じませんでした。それでも、その後も李陵は陰ながら蘇武を種々支援したと伝わっています。
その後、蘇武は片足を切断されて洞窟に幽閉され飲食も絶たれました。降った雪と節の飾りの旃毛(せんもう 毛織物の毛)を食べて数日間も死ななかったのです。蘇武が神かも知れない、と恐れた匈奴は、蘇武を北海(バイカル湖のほとり)に移して雄羊を飼わせ、「オスの羊が子を産んで乳を出したら帰してやる」と言いました。蘇武は野鼠の穴を掘り、草の実を食うなどの辛酸を舐めましたが、単于の弟に気に入られ援助を受けて生き長らえ、最後まで匈奴に屈することはありませんでした。
一九年の歳月が流れ、母国の漢では武帝は死去し昭帝が立っていました。ある日、多くの雁が、蘇武を見ても恐れて逃げなかったので、そのうちの一羽に一筆認めて結びつけました。昭帝が、武帝が開いた庭園・上林苑を遊覧していた際、折しも一列の雁たちが飛来。その中の一羽が降りてきて自分に結びつけられた手紙を食いちぎって落としました。手紙には「一旦は洞窟に幽閉されていましたが、今は広い田畝に捨てられています。たとえ胡の地に死すとも魂は変わることなく主君のお傍に仕えます」と書かれていました。
爾来、文のことを「雁書(がんしょ)」、あるいは、「雁札(がんさつ)」と言うようになりました。ご承知のとおりです。

さて、この蘇武の雁書と似たようなことが日本でもありました。鹿ヶ谷の変で平清盛を倒さんとして捕らえられ、藤原成経、僧俊寛とともに鬼界が島へ流された平康頼は、千本の卒塔婆(そとば)を作り流しました。それには、阿字の梵字、年号・月日、俗名・本名、そして、二首の歌を書きつけ、「南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、王城の鎮守諸大明神、別しては熊野権現、安芸の厳島大明神、せめて、一本なりとも、都へこの思いを伝えてください」と書かれていました。幸いにも、そのうちの一本が厳島に流れ着いたのです。蘇武の故事同様、めったにないことです。『平家物語』巻第二の第十六話に詳しく出ています。拙著『平家物語の梗概』にも書いていますので、よろしかったら読んでくだされば嬉しいです。

閑話休題 蘇武の話に戻りましょう。
そのうち漢から匈奴へ使者が来て、その使者を通じて武帝が亡くなったことを李陵は知りました。李陵は少し驚きますが、大して関心を持ちませんでしたが、単于の許しを得て、蘇武の下へ向かい、それを伝えました。それを聞いた蘇武は、血を吐きながら大声を挙げて悲しみ泣いたそうです。李陵は蘇武の忠誠心の高さに驚き、二人して李陵が持参した酒を飲み交わして想い出話に花を咲かせたということです。
匈奴との和睦が決まり、昭帝は匈奴に蘇武の返還を求めたところ、単于が拒否したので、昭帝は、やむなく大軍を差し向けて匈奴を破って蘇武を救出するところとなりました。
蘇武は帰国を決めた後、李陵にも帰国を勧めましたが、李陵は同意しませんでした。
蘇武の帰国を前に単于が送別の宴を開いてくれることとなり、李陵も招かれました。しかし、李陵は蘇武に多くを語らず、ただ「もしも武帝が我が一族を殺害していなければ、私も帰国したであろうけれど。君だけは私の思いを知って欲しい」とだけ言って、涙ながらに歌って舞いました。
径万里兮度沙幕  ばんりをゆきすぎ さばくをわたる
為君将兮奮匈奴  きみのためしょうとなって きょうどにふるう
路窮絶兮矢刃摧  みちきゅうぜつし しじんくだけ
士衆滅兮名已隤  ししゅうほろび なすでにおつ  隤は「くずす」「くずれる」
老母已死     ろうぼすでにしす
雖欲報恩将安帰  おんにむくいんとほっするも またいずくにか かえらん

そして、「今日からは別々の道を歩むことになる。永久の別れだ」と詩を賦して蘇武に贈ったようです。三首が知られておりますが、ここでは最初の一首だけ紹介します。
インターネットで、先人のお書きになったものを参考に紹介させていただきます。参考にさせていただいたURLは下記のとおりです。
https://chinese.hix05.com/Han/han08.lilyou.html
https://ameblo.jp/57577-kansiyaku/entry-10813012491.html
與蘇武三首(蘇武に与う三首)         
   良時不再至  良き時は二度と至らず 
   離別在須臾  (しかれども)離別は須臾(一瞬のうち)にあり
   屏營衢路側  衢路(分かれ道)の側に屏營(ためらう)し
   執手野踟厨  手を執りて野に踟厨(ためらう)す
   仰視浮雲馳  仰いで浮雲の馳するを視るに
   奄忽互相踰  奄忽(たちまち)として互ひに相ひ踰ゆ
   風波一失所  風波に一たび所を失へば
   各在天一隅  各おの天の一隅に在り
   長當從此別  長く當に此より別るべし
   且復立斯須  且く復た立ちて斯須(しばしの間)す
   欲因晨風發  晨風の發するに因って
   送子以賤躯  子を送るに賤躯を以てせんと欲す
 意味としては
  良い時はもう二度とこない にも拘らず離別の時はたちまち迫ってくる
  別れ路に立っては 心乱れて躊躇(ためら)い 野原で手を取り合っては 別れを惜しんで また躊躇う  
空を仰ぎ見れば 浮雲が次々と駆け たちまち遠ざかって行く
   風に吹かれて ひとたび別れれば もう一緒の雲も 天の別々の所で 離れ離れになるというのに
   我々もそれと同じ ここから分かれねばならないのだ 
別れを惜しむあまり 立ちつくすばかりだ
   ああ、せめてあの朝風が吹いてくれば この身をそれに乗せて君を送りたいもの    
   だ
蘇武も答えて、「二羽の鳬(けり、または、かもめ)に譬え一羽は南へ出立し残る一羽は残留する」という詩を賦し返したようです。
 読み下し文としては
双鳬(そうふ)倶に北に飛び
一鳬(いっぷ)独(ひと)り南に翔(か)ける
子(し)は当(まさ)に斯(こ)の館に留るべし
   我は当(まさ)に故郷に留帰るべし
   一別(いちべつ)秦胡(しんこ)の如く
   会見何(なん)ぞ渠(にわか)に央(つ)くる
   愴恨(そうこん中懐(ちゅうかい)に切なり
   覚(おぼ)えず涙(なみだ)裳(も)を霑(うるお)す
   願はくは子(し)長く努力し
   言笑(げんしょう)相忘(あいわす)るること莫(なか)れ
先述の『蒙求』「李陵初詩」の項
で標題の示すとおり、著者の李瀚は、この二つの詩を五言詩の始まりと記載しています。ただ、五言詩は紀元前には確立していなかったとして、これら二つの詩は共に後世の別人の作とする学説が有力らしいので念のため申し添えます。

このような悲しい別離を経て、蘇武は片足がないため輿に乗って帰郷しました。帰還した時には、更に悲しいかな、母は既に亡くなり、匈奴へ派遣される時に固い誓いを蘇武が詩に託した妻も他の男性に嫁していました。同じ理由で、この詩も後世の別人の作かも知れません。
帰国後、昭帝から領地として大国を受領したうえ、さらに「典俗国」の地位も得ました。現在でいえば、大臣の地位にも相当するようです。そして、紀元前六〇年、八〇歳を超える年齢まで生き永らえて没しました。『蒙求』には「蘇武持節」の項に出ています。

李陵と蘇武。二人は好対照です。
李陵は、誤報・誤解から愛する肉親を全て殺害され、たった一人となりました。武帝への忠誠心も限度があったろうと推察され、私個人としては同情を禁じえません。やむなく匈奴の女性と結婚し、匈奴のために貢献しましたが、これも当然の帰着かと思います。
一方、蘇武は匈奴の女性との間に子まで生しながら故国へ帰りました。後には、その子を漢に呼び寄せていますが、蘇武の望むとおりの結果にはなっておりません。武帝への忠誠心を貫いて、後年の人々からも高く評価され、絶賛されましたが、果たして、それで幸せだったのでしょうか。読者の皆さんは、この二人をどのように評価されますか。もしも、ご自分が二人のような境遇になったとしたら、二人のうちどちらのような選択をされますか。じっくりお考えいただければ、有難いと存じます。

中国文学に造詣の深い漢学者の一族として生まれ、惜しまれながら持病・喘息の悪化から、昭和一七年に三三歳で夭逝した作家・中島敦の遺作『李陵』は素晴らしいと思います。お読みになれば必ず感動が待っています。是非お読みいただきますようお勧めします。この拙稿の執筆にあたり随分参考にさせていただきました。

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