食器棚の大きな茶碗。

川沿いにカーブしたアスファルトの道路。

カーブの先に水色のバスが小さく現れ、だんだんと近づいてくる。

そして、コンクリートの橋のたもとにあるバス停に止まる。

乗車は中扉から。ステップを上がると少し混んでいて空いている席はない。

わたしの乗るバス停は、始発の駅と終点の駅の

ちょうど中間くらいにあるので、それはいつものこと。

慣れている。ぎゅうぎゅう詰めじゃないだけマシ。

銀色の手すりにもたれるようにつかまり、

もう十何年も見慣れている窓の外の風景を見る。

川辺には黄色いタンポポや緑の雑草が生い茂り、季節を伝える。

川の向こうにある山も、いろいろな色や濃さの緑に彩られている。

バスの車内は乗客たちの話声が混じり合う。

知り合いをみつけて交わされる朝の挨拶。

小さな子どもを叱る母親の声。

女子高生は中学時代の友人に高校の新しいクラスについて話している。

「体調はくずされていませんか? バタバタしていて、

気が張っているときはいいけれど、結構あとからきますからね」

目の前の二人掛けの席に座っている老婦人に、

隣に座るメガネをかけた中年女性が話しかける。ご近所同士らしいふたり。

「ありがとうございます。でも、もうだいぶ落ち着きました」

窓から差し込む光にとけていくように、老婦人の声はやわらかい。

会話を聞くともなしに聞いていると、

老婦人のご主人が最近亡くなったことがわかる。

「そんなに毎日は変わらないのですけれど、お茶碗を見るとね。

食器棚に主人のお茶碗があって」と、続きの言葉は小さく消える。


少し大きめの男性用のお茶碗を想像する。

品の良い老婦人の感じからすると、

つるんとなめらかな白磁に藍の模様のお茶碗かしら。

もし、昔気質の頑固なおじいさんだったのなら、

男っぽい鉄黒の深めのお茶碗というのもありそう。

毎日、炊きたての白いごはんを盛り、

ときには混ぜごはんや炊き込みごはんの日もあっただろう。

風邪を引いたときはおかゆやおじやも。

小さな手から、大きな手へとお茶碗は渡される。

夫婦が若いときには「おかわり」の声に、

手から手へと往復したかもしれない。

食事が終わるときれいに洗い、水気を切って乾いたふきんで拭く。

ていねいに扱われ、食器棚の定位置におさまる。

そんな毎日を過ごしていたお茶碗も、今は静かに置いてあるだけ。

上に重ねてある小ぶりのお茶碗だけが、出たり入ったりを繰り返し、

そのたびに小さな音を立てる。


誰かを失うことで日常の風景が変わる。

そして、一緒に過ごした日々への愛しさは

時間が経つほどに深まっていく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?