夜の始まりの前に。

歩いている途中で急におなかが痛くなった。
いたたたたっ…。トイレに行きたい…。
コンビニとかあるかな? でも、そういうときに限って、
周囲には、なぜか焼肉屋とか居酒屋しかない。
おまけにまだ夕方の4時を回ったくらいで、
それらの店には準備中の札が下がっていた。
坂を下った十字路。左右に商店街が続いている。
右? 左? さてどっち?
どこかカフェなど、ないだろうか?
こっちだ。と思って右に折れ、ずんずんと進む。
ちょっと早足になる。
やはり飲み屋っぽいお店はあるけれど、
どこもまだ閉まっている。
やっぱり左だった?
洒落た雑貨を置いているお店も本屋さんも今はパス。
ずいぶん遠くまで来てしまって、本気でまずいなぁと思い始めたとき、
右手に道路に置いてある黒板の看板を見つけた。
白いチョークで、「COFFEE TAKE OUT」と書いてある。
カフェだ。パッと目の前が開けた気がする。
ホッと安心。
入り口はまぁまぁなスペースがあって、
6人ぐらいで囲えそうな木のテーブルと二人掛けのテーブルがあり、
数段階段を上ると、細い通路の奥へとカウンターが続いている。
スタッフは男性がひとりだけ。
「どうぞお好きな席に」と言われ、
とりあえずカウンターのいちばん奥の席に荷物を置く。
「す、すみません。先にトイレ借りてもいいですか?」
「どうぞ、その左手です」
トイレ借りにきたのがバレバレだけれど、まぁしょうがない。
なんとかセーフで、痛みも去る。ふぅ。
すっきりした気持ちで、あらためて少し高いカウンターのスツールに座る。
おしぼりと水が出てくる。
「ありがとうございました」
さて、どうしようかな。でも、もう夕方だし、少し飲もうかな。
「チンザノのロッソをソーダ割で」
「レモンかライムは入れますか?」
「あ、じゃあライムで」
さっきまでふたりいたお客さんが次々と帰っていき、
わたしひとりになった。
古材を使ったようなグレーっぽい木の床。
黄色っぽい柔らかな光の照明が、
やはり古い木のカウンターを照らす。
口が広いシンプルなタンブラーに茶色いお酒。
グリーンのライムが氷と一緒にゆらりと揺れる。
カウンターの向こうにはガス台があって、
チキンと野菜を似た深鍋がかかっていて、店主らしきひとがときどき、
木べらでかきまわしている。黄色いしカレーかな。
まだ5時前だけれど、表はずいぶん暗くなっている。
もう、すっかり秋なのだなぁと思う。
バッグに入れていた本を読む。
次の約束まではまだ時間がある。
本から目を上げる。
白い湯気の鍋がやっぱり気になる。
メニューを見ると「自家製カレー」とある。
お、ハーフもあるのか。そんなにおなかは空いていないけれど、
やっぱり食べたい。お腹痛いのも治ったし。
「すみません、あの…カレーをハーフで。
そしてごはん抜きってできますか?」
「いいですよ」
よかった。
てっきり、その鍋からよそうのかと思ったら、
カウンターの下から別の鍋が出てきた。
あれ、あれはカレーじゃないのか? なんなんだろう。
雪平みたいな小さな鍋に、少しカレーをよそい温める。
「炭水化物抜きとかしているんですか?」店主にそう聞かれる。
「いえいえ、そんなワケじゃないんですけれど、
がっつり食べちゃうと眠くなるので…。
スパイスのせいか、カレー食べると眠くなるんです」と
余計なことまでべらべらしゃべってしまう。
「そうなんですか。最近多いんですよ。炭水化物抜き。
とくに男性のお客様に」
「へぇ。えらいですね。節制しているんですね」
「どうぞ」
小さな深鉢にカレーが入って出てきて、
水とシルバーのスプーンが一緒に置かれる。
カレーは赤っぽい色で少しさらっとしている。
肉はひき肉で、アスパラガス、トマトが入っている。
いろいろなスパイスの味がするけれど、そんなに辛くはない。
やさしい味。薬膳みたいに体をいたわる味だなと思う。
腹痛から回復したばかりで、余計にそう感じるのかもしれない。
「おいしいです。やさしい味ですね」
「さっき作ったばかりだから、まだ味がなじんでなくて、
スープっぽいんですけれど…」
「いや、これはこれで。すごく美味しいです」
体の中がふわっと温かくなる。
通りの向こうに灯りが点いて、
紺色の中に店やクルマの輪郭が浮かび上がっている。
「日が暮れるのは早くなりましたね」
「本当ですね。いつのまにか1年が終わっていきますね」
ときどき会話を挟みながら、
活字を追い、表の暮れゆく風景に目をやる。
気がつくと時計は6時半近くなっていた。
居心地の良い場所、居心地の良い時間だけれど行かなきゃ。
「すみません、お会計を」
お金を払って、スツールからすとんと降りて、バッグを肩にかける。
「ありがとうございました」
店主の声に見送られて外に出る。
すっかり夜になっている。
振り返ると店主が黄色っぽい灯りの中、
カウンターの前に立っていて、
こちらを見て、ぺこりとお辞儀をしてくれた。
わたしもお辞儀を返す。
商店街を元来た道を戻る。

少し歩いてから、あの鍋の中身がなんだったのか、
聞くのを忘れていたことに気がついた。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?