深夜のお寿司。
「お父さんが、お寿司買ってきたわよ〜」
母親が1階の階段の下から呼ぶ声がする。
もうパジャマにも着替えて、歯も磨いてベッドにも入っている時間。
子どもは寝なきゃいけない夜の時間。でも、”お寿司”は特別。
父親は電車で約1時間の東京に通うサラリーマン。
平日の夜は、夕食を一緒に食べるということがほとんどなかったし、
帰ってくる頃には、子ども達は寝てしまっていた。
ときどき、父親は飲んだ帰りに東京のお寿司屋さんで、
折り詰めをお土産に買ってきてくれた。
もしかしたら、一緒に飲んでいたひとが、
「奥さんや子どもさんたちに、お土産に」と頼んでくれたのかもしれない。
サザエさんのマンガに出てくるような正統派の折り詰め。
濃い黒だかグリーンの紙で包んだ白木の箱は、
細い紐で十字にくくられていて、
紐の先には輪っかがついて、ちゃんと下げられるようなっていた。
ちょっと千鳥足で、父親はこの箱をぶら下げて歩いたのだろう。
母親の声に2階の子ども部屋から、
わらわらと出てきて階段を駆け下り、1階のダイニングに座る。
テーブルの真ん中には長方形の箱に入ったお寿司。
包装紙がはがされ、薄い木のふたを取る。
鮪、海老、白身のお魚、イカ、いくら、玉子などの握りと、
鉄火やかんぴょうなどの巻物のお寿司がきっちりお行儀良く並んでいる。
母親がお茶を入れ、お醤油の小皿を配る。
兄姉に取られないように、大好きな海老にまずお箸をのばす。
次は玉子。好きなものから食べていった。
今は海老のお寿司も、玉子のお寿司もそんなに好きじゃない。
父親は食べることなく、着替えてお風呂に入りに行ってしまう。
食べ終わるまでだいたい30分くらい。
「ちゃんと、もう一回、歯を磨くのよ」と母親が言う。
あれは何時くらいのことだったのだろう。
終電で帰ってきたのだとしたら、たぶん午前1時頃のはず。
生ものだから、翌日には持たない…と思ったからなのかもしれないけれど、
父親がお土産でお寿司を買ってきたときだけは、
夜遅い時間に起きていることや、歯磨き後に何かを食べることが許された。
深夜のお寿司は、大晦日に遅くまで起きているのと同じで、
ワクワクすることのひとつだった。
歯を磨いて、また2階への階段を上る。部屋に戻ってベッドに入る。
いつもなら、もう完全に寝ている時間なので、
余韻にひたることもなく、ことんと眠りに落ちていく。
ほんの30分間の深夜のイベント。
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