風月の想い出「ミートたっぷりね」

高校を卒業して、武蔵野のはずれにある美術大学に進学した。

立川と国分寺、そして東大和市の境にあり、住所は小平市だった。

どの市の中心駅からも遠く、いちばん最寄りとされていたのは、

西武国分寺線という黄色い車両のローカルな路線の駅だったけれど、

下車後、さらに玉川上水沿いにひたすら歩くという道のりだった。

太宰治が入水できるほどの水は流れておらず、

湿った堀があるだけの玉川上水だったけれど、

雑木林の木々の合間から木漏れ日が差し、心地よい風が抜けていく、

空を見上げれば鳥の囀る声が…

なんて情緒に浸ることはまったくなかった。

そこに通う学生たちは、小脇に数枚のキャンバスやカルトンを抱え、

または、設計図や作品を入れる筒型のケースを肩からかけ、

鉛筆や絵の具の入った箱を持ち「遠い…重い…手がちぎれる」

「なぜ、こんな辺境の地に校舎を建てた」

「オレの東京おしゃれライフは、こんなハズじゃない」と、

恨み言をぶつぶつとつぶやきながら歩いた。

オレンジ色の中央線で東京方面から西に向かうと、

三鷹でがらっと景色も気温も変わる。

入試の日、手がかじかむような寒さの中、

白い雪の道を重い荷物のカートを引いて歩き、

滑って転び絵の具をばらまいた。

しかし、入試が終わって再び国分寺の駅から中央線に乗ると、

三鷹を過ぎるとおもいっきり快晴で、雪のひとかけらさえなかった。

「こんなところには通いたくない…」

「多摩美は無理だとしても、おしゃれな女子美に行きたい」

そんなふとどきなことを考えていたせいか、

見事にその学校にしか受からなかった。

世間は「美大」というものに

どんなイメージを持っているかわからないけれど、

わたしの時代は「ハチクロ」みたいな

きゃっきゃっ、うふふという世界では全くなかった。

10代後半から20代半ばの青臭い男女の集まり。

世界を変えるようなアーティストになりたいという

ギラギラとした上昇志向と「ワタシ(オレ)は、センスがいい」という

過剰な自意識&自己愛、だけれども「藝大には行けなかった」という

コンプレックスや、シニカルさがごった煮になった、

ひとことで言ってしまえば、ちょっとこじらせちゃった系の

めんどうくさいひとたちの集まりだった。

このめんどうくさいひとたちの中には、さらなるヒエラルキーがあり、

それぞれの居場所は、学内にあった食堂で棲み分けされていた。

グラフィックをはじめとするデザイン科の学生は、

”ホール”と呼ばれる学校の中心にあるカフェテリアに棲息し、

デザイン科でも工業や工芸、彫刻などの実技系の学生は

”風月”と呼ばれる食堂をたまり場にしていた。

おしゃれデザイン科の学生は流行のデザイナーズブランドの服、

またはもどきを格好良く着こなし、実技系の学生は絵の具や染料、

油に汚れたツナギを愛用していた。

”ホール”は大食堂といった感じで、今日の定食から、カレー、ラーメン、

うどん、そば、パスタ他、いろいろなメニューが揃っていた。

トレーを持って料理の皿を取り、レジに持っていくシステムだったけれど、

混んでいるレジに並ぶのがめんどうくさかったり、

毎日の食事代よりも、画材やおしゃれにかけるお金のほうが大事な

学生が多かったので、お皿の乗ったトレーを持ったまま、

レジをスルーするというワザもよく行われていた。

もうひとつの食堂である”風月”は、

構内の奥まった場所にある平屋の建物で、

その脇にあるコンクリートの側溝には、

テキスタイルの染色専攻の学生たちが流す、

色とりどりの廃液がたまっていた。

いちばんふさわしい言葉で、”風月”を表すとしたら、

それは工事現場の”飯場”。

決して清潔とは言えないつなぎを着た男女が長テーブルにたむろして、

丼ごはんの定食やうどんをかっ込む…そんな場所だった。

ときにはデッサンの授業のためにヌードモデルとして雇われた、

ひとクセありそうな美女がアンニュイにタバコをくゆらせていた。

”風月”は、そこで働くひとたちもツワモノで、

波瀾万丈の人生を醤油で煮しめたような人相のおばちゃんたちが、

飢えた学生たちを待ち構えていた。

メニューはうどんやそばなどの麺類と、日替わりの定食が

2種類くらいだったと記憶している。

この定食には、もれなく「ミート」なるものがついてくる。

「ミート」とはミートソースのようなもの。あくまでも「ようなもの」。

「定食ひとつ」と頼むと、おばちゃんが「ミートかける?」と聞く。

「ミートはいらない」と答える間もなく、

すでにフライや肉の乗った皿にはミートがかかっていた。

”風月”と”風月のおばちゃん”は愛すべき存在であり、

さまざまな伝説を生み出していた。

「うどんの中に10円玉が落ちていたので、

”おばちゃん! 10円玉入っているよ”と言ったら、

”おや、当たりだね”と言われた」とか、

「丼におばちゃんの指が思いっきり入っていて、

”おばちゃん! 指、指”って言ったら、

”大丈夫、熱くないから”って…」などなど。

某有名イラストレーターが在学中に作ったとされる、

”風月のおばちゃん”というタイトルのテーマソングもあった。

サビの最後は「ミートたっぷりね〜」という歌詞で締められる。

ミートがかかった、いや運良くかかっていなくても、

そこで提供されるメニューは、

美味しいとか、不味いという次元を超越していた。

”風月の味”として認識され、

1学年上がる頃にはすっかり慣れてしまう。

卒業時には「ミートたっぷり」も当たり前になっている。

ちなみに、わたしは中途半端なデザイン科だったため、

ときにはホール、ときには風月でぶらぶらしていた。

そして、もうひとつ構内にはハンバーガーやジュースを売っている

小さな喫茶スペースもあり、いつの間にか居着いた

でぶっとした白に黒ぶちの「牛田モーミン」という名前の猫が、

時折、どすどすと重たげな足取りで横切っていった。

政治的なところは一切ないような学校だったけれど、

何匹かいた猫が行方不明になると立て看が校門の通路に置かれた。

モラトリアムの時代を満喫し、熱く語ったり、

才能のなさに打ちのめされたり、

バイト先の建築家と不倫関係に陥った友人や、

北海道で失踪した先輩を心配しながら学生時代は過ぎていく。

卒業してから幾星霜。東京の辺境にあるその地に足を運ぶことはなく、

”風月”も卒業後、割とすぐになくなったと聞く。

過ぎてしまえば、想い出はすべて美しい。







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