恋女房とおでん。

落語の中にはよく食べ物が出てくる。

人間の営みや人と人との関わり合いを面白おかしく、

ときには悲しく、せつなく語るのが落語だから、

人が生きていく上で欠かせない「食べ物」が出てくるのは、

当然といえば当然なのかもしれない。

有名なところなら「時そば」。たった一文のお金をごまかすための、

壮大なおべんちゃらの噺だ。提灯をほめ、器や箸をほめ、

つゆ、そばの太さ、中に入っているちくわまでほめる。

現実だったら「そこまでやる?」という展開だけれど、

スピーディでぽんぽん弾むような

言い立てのリズムの楽しさに引き込まれる。

鰻や羊羹、まんじゅうも、よく出てきて、

江戸や明治も、今とそんなに変わらないと思える。

もちろん、人間だっていつの時代も同じ。

おっちょこちょいで、だらしなくて、助平で、

ええかっこしいで欲張り。

でも人情というものがあって、誰かが誰かを想って生きている。

好きな落語のひとつに「替わり目」という噺がある。

落語は演者によって、印象がガラリと変わる。

ときには結末までも変わってしまう。

だから、立川談春師匠の演る「替わり目」としておく。

ぐてんぐてんに酔っ払って帰ってきた亭主。

女房は「はやく寝なさい」と言うが、

「もうちょっとだけ飲みたい。寝酒が飲みたい」となかなか寝ない。

「お寝なさい」と一点張りの女房の態度に

「一家の主なんだから気持ちよく飲ませろ」とからむ。

酔っ払いにやれやれと呆れながらも、

最終的には亭主の言うとおりに酒を出す女房。

「つまみはないの?」と亭主は聞くが、佃煮も納豆も、おこうこも、

みんな「いただきました」と女房は答える。

あまりにも亭主がうるさいので

「じゃあ、まだ横町のおでん屋があいていると思うから、

何か買ってくるよ」と女房が言うと、

亭主は「俺が食いたいのは”焼き”だ」と注文する。

女房が「”焼き”って何?」と聞く。

「”焼き”っていやぁ焼き豆腐のことだ、

”や・き・ど・う・ふ”なんて長くていけねぇ。

江戸っ子は言葉を短く言うんだ」と、

今度は延々と、省略おでんネタのやりとりが続く。

やっと女房が出かけたあと、さんざん悪態をついていた亭主が、

「こんな飲んだくれを相手にしてくれるのは、あの女房だけだ。

ありがてぇな、すまねぇな」とひとりごとを言う。

と、そこにはまだ出かけていない女房が立っている。という話。

まぁ、はっきりいえば、ツンデレ夫婦のいちゃいちゃした掛け合い。

でも、談春師匠が演る女房は本当に可愛い。酔っ払いに手を焼きながらも、

ちゃんと付き合ってあげて、おでんまで買いに行くのは、

亭主のことが大好きで、本人もそのやりとりを楽しんでいるから。

強気と弱気がごっちゃになった亭主も

「もう、本当にこのひとったら…」と女に思わせるダメな可愛らしさだ。

何かの会のときに師匠は「俺が演る女は実際にはいない。

俺がこういう女がいたらと思って演っている」と語っていた。

そう、実際に亭主が酔っ払って帰ってきたら相手になんかしない。

夜遅くにわざわざおでんを買いに行かない。

まず、きっと寝ていて起きないと思う。

さらに言えば独身だし。

でも、深夜にぽんぽんと軽口を叩きながら、

一緒におでんを食べて飲むのは楽しいだろうなと思う。

卓袱台の上には、アルミの両手鍋に入った買ってきたおでん。

亭主の言うところの”焼き”やら”やつ””がん”、それに女房の好きな”ぺん”。

わたしだっら”わぶ”と”たま”、それに”こん”や”だい”も食べたいかな。

どの具も味がしみしみで、いい感じにくたってしている。

きっと亭主は、全部食べ終わらないうちに、いびきをかいて寝てしまう。

お酒だって、結局はひとくちしか飲んでない。

「まったくね」と思いながらも、毛布をかけて、

おでんの鍋とお酒の入ったコップを台所に片付ける。

もう元栓を閉めたコンロの上に鍋を置き、

最後にもうひとつだけと、昆布をつまんでフタをする。

落語会で談春師が「替わり目」を掛ける。

心の中で「待ってました」と声を出す。

こんな女はいない、こんな女にはきっとなれない。

だけど、いやだからこそ、

この噺を聴くときは、

可愛い女房の気分と深夜のおでんを味わっている。








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