アンディ・ラウのうどん。
映画を観るのが好き。
できれば映画館で。そして年間50本が目標なのだけれど、
なかなか到達できない。映画館で観る映画と、
家でDVDやダウンロードして見る映画は、別なものだと思っている。
どっちがいいとか悪いとかの話ではなく。
映画館で映画を観る。真っ暗な空間で約2時間、
映画の世界に埋没する。その時間が好きなのだ。
スクリーンの中で繰り広げられるさまざまな物語。
遠い過去、まだ見ぬ未来、宇宙、
遠い国、または近い国、さらには架空の国の
歴史や自然、習慣、思想、哲学、宗教、政治、戦い…。
そして、自分に似ているひとや、似ていないひとたちの
夢、情熱、愛情、欲望、憎しみ、悲しみ、怒り、
絶望、孤独、すれ違い、喪失、そしてユーモアなどなど。
こうして、書き出しても切りがない。
スクリーンから伝わってくる、
それらに対して、ときには共感し、ときには反発する。
感情を揺さぶられ、理解できず混乱したり、初めて気がつくこともある。
本と同じくらいに、映画が教えてくれることは多い。
その登場人物たちの服装や持ち物にも目がいく。
リアリティは細部に宿る。
着ている服やその着こなし方、小物によって、
階級や住んでいる地域、仕事、ポジション、時代、
そして性格までもが浮かび上がってくる。
話している言語を字幕なしでわかれば、
イントネーションやスラングなどで、もっと細かいニュアンスを
理解することができると思うので、それは残念。
Twitterのフォロワーの方で、たくさん映画を観ている方がいる。
バーテンダーという職業もあり、ときどき「お酒」をキーワードに
映画を語っていることがあり、面白い視点だなと思う。
お酒の銘柄には詳しくないのだけれど、
例えば80年代のアメリカのウォールストリートの
ビジネスマンが飲むお酒とか、流行したカクテルなど、
知っているとより登場人物の背景がわかる映画もあると思う。
同様に、クルマや聴いている音楽なども語るものは大きいだろう。
そして「食」も大切な要素となる。
とくに香港や台湾の映画には、記憶に残る食事シーンがたくさんある。
さすが食べることが好きな国のひとたち。
2011年に公開された『新少林寺/SHAOLIN』にも、
そんな印象的なシーンがある。
清王朝が倒れたあとの混乱する時代の中国が舞台。
アンディ・ラウ演じる主人公は、悪辣で独裁的な将軍なのだが、
腹心の部下(演じるはニコラス・ツェー! かっこいい
ちょっとオダギリ・ジョー風味)の裏切りに合い、なにもかも無くし、
かつて自分が迫害した「少林寺」に逃げ込む。
そこでジャッキー・チェン演じる少林寺の厨房係に助けられ、
過去の自分を懺悔して出家し、心身共に鍛錬を積み、
少林寺を守るために闘う! という、
まぁわかりやすといえば、わかりやすいストーリー。
その中で、個人的にいちばんの見せ場だと思っているのが、
自身の傲慢さによって愛する者を失ったアンディ・ラウが、
ジャッキー・チェンの差し出すうどんを泣きながら食べるというシーン。
全然、きれいな食べ方ではないのだけれど、
涙を流しながら、ずずずずずっとうどんを食べるアンディ・ラウを
カメラが真っ正面からとらえる。
食べることは生きることであり、
絶望の中にいたとしても、
食べることで一歩前に進むことができる。
もし、このシーンの料理が定食だったらどうだろう。
泣きながらごはん茶碗片手におかずに箸をのばす…。
いやいや違う。やっぱりあれは、温かいうどんだからこそのシーン。
すする麺や汁の味と温かさと共に、
今までの自分の行いや、愛するひととの想い出、
さまざまな感情がアンディ・ラウの心の中に押し寄せ、
ぼろぼろと涙を流すのだ。
この映画では、その他にも小麦粉をこねる要領で相手を倒したり、
大鍋を持って戦ったり、ジャッキー・チェンならではの
コミカルな場面もいっぱい。
ふかしたお饅頭も美味しそうだったなぁ。
そうそう、ジャッキーといえば『クレイジー・モンキー/笑拳』の
修行シーンで、師匠に邪魔されてなかなか食事ができない、
”お箸アクション”も大好き。テンポがよくて、笑い転げてしまう。
「食」も「笑い」も人生には不可欠だと実感する。
ひとつ見せ場があれば、それだけで忘れられなくなる映画がある。
『新少林寺/SHAOLIN』はそんな1本。
切れのいいカンフーアクションも、派手な爆破シーンもあり、
そしてたくさんの坊主男子も出てくるけれど、
アンディ・ラウのうどんこそが、最大の見せ場なのだ。断言!
(監督の意図は違うかもしれないけれど…)
辛く悲しく、やりきれないことがあったとき、
誰かにジャッキーのように、温かいうどんを作ってもらいたい。
そして泣きながら食べたら、ほんのちょっぴりでも
生きる力が湧いてくるかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?