らくごはん(9)

「黄金餅」 あんころ餅 

食べ物の噺ではあるけれど、あまり気持ちのいい噺ではない。 
落語だから笑える部分もあるが、
全体には暗く重い空気がまとわりつく。
「落語は人間の業の肯定」と言ったのは立川談志師匠で、
その談志師匠が得意としていた噺でもある。

人間の業とはなんだろうか?
喜び、楽しみ、愛おしむ。
嘆き、悲しみ、哀れむ。
怒り、憎しみ、妬む。
どんな人間でも複雑な感情を抱え込んでいる。
そして何かに執着する。人に。金に。美しさに。そして生に。
自分は善人だと思っていても、極限の状況に追い込まれたり、
目の前に大きな誘惑があったとしたら?  
自分が思っている「善きひと」でいられるだろうか?
この噺を聴くたびに、いつも考える。
  
談志師匠の「黄金餅」は残念ながら聴いたことがない。
わたしの中で強い印象を持つ「黄金餅」は、
その談志師匠の弟子である立川談笑師匠のもの。

落語は聴く側の想像力によって完成する芸だ。
語られる言葉から、風景を見て、季節の風を感じ、
ひとの息づかいや汗のにおいまでを想像する。
談笑師匠の「黄金餅」は、その想像力が自分にあることを
後悔してしまうような壮絶さがある。

登場人物は貧乏長屋に隣同士に住む、西念という願人坊主(僧侶というよりも乞食や大道芸人に近い存在)と金山寺味噌を売る金兵衛。
西念は、根っからのケチで病気になっても、
薬を買うことも医者に行くこともしぶり、結局は寝付いてしまった。
金兵衛が見舞いに行くとあんころ餅を買ってきてくれと言う。
餅を買って持って行くものの、
食べているところを見られたくないと言い、金兵衛を追い返してしまう。
その態度をあやしみ、隣に帰って壁からのぞくと、
西念はいままで貯めたお金を餅にくるんで、ひとつずつ丸呑みをしていた。すべてを飲み込むと苦しそうにうめき声をあげる西念。
金兵衛は驚き、隣の部屋に飛び込み吐き出させようとするが、
西念は決して口を開かず、そのまま死んでしまった。

ここで金兵衛に魔が差す。
西念が飲み込んだ金を自分のものにしようと考える。
金兵衛は西念の遺体を寺に運び、焼き場で支払う切手を買い、
適当にお経を上げてもらい、焼き場へと向かう。

「腹は生焼けにしてくれ」 

そんな無茶苦茶な注文をつけ、「骨は自分だけが拾う」と
焼き場の人間を追い払い、寺から盗んだ鰺切庖丁で腹を裂き、
西念が飲み込んだ金を取り出す。

自分の想像力を恨む場面の連続。
思わずぎゅっと目を瞑る。
瞑ったところで、見ているのは目ではないので、
その場面が消えるわけではない。
そして、自分は第三者の視点で見ているのか、
金兵衛となって腹を裂いているのか。
本当に怖い。心臓がきゅうっと締め付けられる。

噺の結末。
金兵衛は、西念の金を元手に餅屋を開き、
「黄金餅」と名づけられた餅は、
江戸の名物となり店も繁盛したと締めくくられる。

普通ならそんな金で商売したところでうまくいかない、
因果応報というか、道徳めいた結論になりがちだが、
決してそうではない。 

「え、そんな…」という宙ぶらりんの気持ちのまま、 
噺は終わってしまうのだ。

西念の死んでも誰にも渡さないという金への執着。
溜め込んだ金を餅に包んで、ひとつずつ飲み込む狂気。
金兵衛もその死と金を目にして、境界を越える。
生焼けの遺体の腹に庖丁を突き立て、そして裂き、
手を入れて金を掴む。

その姿は自分ではないと言い切れるのだろうか?
さらに「そんな金でもうまくいく」という結論が用意されているのだ。
心が動かないという断言はできない。

人間の業の肯定。執着や狂気をも肯定する。
肯定することで、一回自分の心の中に落とす。そして考える。

ただひたすら溜め込んだ金とみすぼらしい死。
その金で掴んだ富。

それは自分にとっての幸せなだろうか?
自分を好きでいられるだろうか?  許せるだろうか?

ただ、ただ考える。

善も悪も自分の中にしかない。

どっちを選んだとしても、それが人間なのだ。                

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