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ドーナツショップで語ろう。

1日の時間があっという間に過ぎてしまうと感じるようになったのは、
いつ頃だろうか? 朝、起きてメールのチェックして、
何カ所かに電話して、メールを返したり、
やり取りをいくつかしただけなのに、
気がつけば夕方…ということがよくある。
何もできていない。日々の仕事をこなすだけで精一杯で、
自分がやりたいことが、何もできていないと感じる。

でも、突き詰めると、その時間のなさや忙しさを理由にしているだけで、「逃げているだけなのかも」「本気でやりたいと思っているわけでない」のでは、とも考える。

忙しくても、いろいろなことが、いっぱいできていた時期がある。
自分の興味や好きという感情の赴くままに生きていて、
「時間がない」なんて感じることもなかった。
高校2年生の夏から、受験が終わった3年生の冬まではそんな時期だった。

美術大学に行こうと、中学生のときから決めていた。
絵を描くのが好きだったこともあるけれど、
「比較されないため」というのも大きな理由だった。
美大のランクは偏差値ではないから。
慶応や明治、早稲田といったブランド大学に入るには、
自分の学力じゃ無理だと思っていたし、
上の兄が勉強ができたので、比較されないフィールドで生きるというのは、
小さい頃から身につけてきた、自分の心を平安に保つ術でもあった。

「美大に行く」ということに関して、両親も理解があり、
高校2年生の夏から美術大学受験専門の予備校に通わせてもらった。

それとは別に、アルバイトは高校1年からやっていて、
平日はお総菜屋さんの売り子、
土日祝日はパンケーキ屋さんでウェイトレスをしていた。
中学3年生ぐらいからロックやパンクといった音楽にはまり、
横浜や東京のライブハウスに行くようにもなっていた。

学校はときどきはサボることはあっても、
基本的には毎日通っていて、
ほんのたまにだけれど美術部の活動にも参加し、
バイトのない日や、予備校が始まる時間の前は、友人たちと
ターミナル駅のフードコートやパフェの美味しい喫茶店などで、
おしゃべりを楽しんでいた。
また、この頃は予備校の友人の影響もあって、
趣味で描く絵のほか、アクセサリーや布小物なども作っていて、
学校、予備校、バイト、ライブ、さらに創作と、
いったいどこにそんな時間があったのか、
1日24時間をどう使っていたのか不思議になる。
でも、決して毎日が寝不足だった記憶はなく、
しっかりと睡眠は取っていたように思う。

10代の多感な時期に、家と学校だけではない、
いろいろな”場所”があって、そこで出逢うひとたちとの会話が、
自分にとって大きな刺激となるとともに、救いであったのは確か。

そんな、いくつかの”場所”のなかで、
とくに同じ目標や夢を持った予備校の仲間の存在は大きかった。
通っていたところは、藝大出身のひとが代表を務める私塾で、
講師はその予備校出身者である、藝大や多摩美、武蔵美などの
現役の美大生だった。この代表のひとは当時40代だったと思うけれど、
女優とつきあっていたり、なかなかな華やかなひとで、
他の講師は20代。生徒は15歳から浪人生の20歳くらいまでがいて、
青春の熱さ、甘酸っぱさ、そして大人のいかがわしさを多少感じさせる、
そんな場所だった。

夜の部のほとんどは高校生で、
結構、良い合格率で知られていたこともあり、
逗子、葉山、藤沢、茅ヶ崎などの近隣の街からも多くの生徒がきていた。
学区内偏差値トップの学校のひともいれば、
私立のお嬢様学校の生徒もいたり、
まじめでオタクっぽいタイプも、ちょっと不良で遊んでいそうなコもいて、学校だけじゃ出逢えないひとたちがいっぱいいた。

ここでの評価は、いかにセンスがあるか、技術があるかということで、
偏差値も、お金持ちか、かっこいいか、
美人かといったことは、全く意味がない。実力だけがすべて。
わたしのほうが上手いのに…というような思いにはならないのが、
実力の世界の厳しいところ。
それは、作品を見れば一目瞭然に自分で判断できてしまう。
自分と同じ年なのに、圧倒的なセンスや技術を持つ仲間に嫉妬をし、
落ち込んだりしながら、
少しの自信を頼りに他のひとに勝てるもの見つけようと、
必死にあがいていたように思う。

放課後の5時過ぎからスタートして、終了は9時。
休憩の30分を挟んで、受験課目であるデッサンや平面構成を習う。
だいたい、3日〜1週間に1作品を完成させるように進行し、
その最終日には、全生徒の前で評価の高い順に作品が並べられ、
ひとりずつ講師が感想を述べる「講評」が行われた。
自分の作品が上のほうにあれば、嬉しいし、得意な気持ちになるが、
下段の下から数えたほうがいい位置にあると、がっくりと落ち込む。
講評の順も評価が高い作品から始まり、低いほうが最後になるので、
他の作品を褒める講師の言葉をずっと聞き続ける屈辱感、
そして自分の作品には何も褒めるべきところがなく、
仲間たちの前で酷評される恥ずかしさとふがいなさで、
「早く、この時間が終わって欲しい」と願った。

そんな講評のあった日は、まっすぐに家に帰らずに、
みんなで駅前にあるミスタードーナツに行った。
当時、ミスタードーナツは24時間で、 夜の9時過ぎに、
制服姿の子どもが入れるお店はそこしかなかったというのもある。
駅前とは思えないほど、静かで暗いロータリー。
茶色、オレンジ、黄色の配色の
ミスタードーナツのファサードだけが明るかった。

店内に入ると、外の暗さとは別世界のように、
蛍光灯の光で、まぶしいくらに明るい。
4人座れるボックス席をふたつくらい確保して、
荷物を置いてレジに向かう。
もう遅い時間だというのに飲み物だけでなく、
やっぱりドーナツも頼んでしまう。

好きだったのは「チョコリング」「フレンチクルーラー」
「シナモン」「シュガーレイズド」「チョコファッション」など。
ドーナツに関しては、意外と保守派でスタンダードなものが好き。
たぶん、お金もそんなになかったので安めのものしか、
選べなかったというのもあると思うけれど。
飲み物は大抵が紅茶。
夜だからコーヒーはやめて紅茶にという理由だったのか、
(実際には紅茶のほうがカフェインが強いらしいけれど)
ポットに入っていて、たっぷり飲めるという理由だったか
忘れてしまったけれど、ドーナツと紅茶という組み合わせが定番だった。

いろいろな高校の制服が混じり合い、
ドーナツをかじりながらのおしゃべり大会が始まる。
まずは講評の下だったコが、自虐的に笑いにしてしまおうと口を切る。
「もう最悪〜、全然ダメだった。絶対、このままじゃ落ちる」
「え〜、わたしより上じゃん。何言ってんの、
いいなぁ○○ちゃんは、今回トップやん」
「そんなことないよ。この間のデッサンは下のほうだったもん。
石膏はいいけれど、静物は本当にダメ。奥行きが出ない」
「マルスやだよね〜。アグリッパも嫌いだけど」
「この間の平面、グレーとオレンジって、あの組み合わせよく考えたよね。すげ〜、やられたって思った。くやしい」
「あれね、自分でもやったと思った。一番目にパネルがきたとき、
きたきたきた〜!って思った」
「死ね、ばか」
「いいなぁ。日本画は平面構成ないし。俺、色塗るとてんでダメ」
「マスキングテープって受験のとき使えないの?」
「武蔵美のデッサンは黒く濃くかけば受かるってさ」
「ホルベインの青、全色欲しい〜。でも、高い。買えない」
「土日だけバイトしたら?」
「うち、バイト禁止。見つかったら即退学だもん。県立と違うもん」

褒めたり、牽制したり、愚痴ったり、
さらには情報交換などをしながら時間は過ぎていく。
本音の部分と自分の嫉妬心やあせりをオブラートに包みながらの会話。
でも、「はやく大学に入りたい」「美大生になりたい」
その思いだけは一緒だった。

終電や終バスの時間もあるので、
おしゃべり大会もだいたい11時くらいまで。

まだ何者になれるかどうかわからなかったし、
受験に落ちることが怖かったし、
なによりも自分の実力のなさが不安だった。
でも、さんざん好き勝手におしゃべりをして、
自分の胸のうちを吐き出すことで、
ちょっとだけ不安な気持ちが消えていったと思う。

ミスタードーナツのドーナツは、少し味が変わってしまい、
昔とはちょっと違うけれど、今でも好きでよく通う。
頼むのも、10代の頃と同じスタンダードなドーナツ。
紅茶はコーヒーに変わったけれど。

あの頃、夢見た職業には就いていないし、
そんな立派な大人にもなっていない。
でも、あの居場所があったからこそ、今の自分があると思うし、
とてもかけがえのない時間だったと思う。


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