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「けったいな町医者」

ここ2,3年ですっかりお医者さんが嫌いになった。
人をまるでモルモットのように見てしゃべるから「そうか私に人格はなかったのだ。実験動物としてこの方に身を捧げなければ」というていで応答しないと成立しない。
もっと言うと・・・かりに私にイボができたとする。診察室に入るとできたイボをチョイと切られて、お医者はそのイボを顕微鏡で観察しはじめる。イボの土壌であるわたしには用なしらしい。彼にとってはイボの成分や、なんの細菌であるかが大事で、イボを駆逐するための薬や処置が見つかればオーケーなのである。が、わたしはまったくオーケーじゃない。なぜイボが現れたのか、イボはなにを糧にふくらんだのか、イボができない生活や身体を、どうもとめていったらよいのか。
そういうことがまったく分からぬまま、出された薬をぬったらイボが消えていく。自分のことなのに、自分不参加。何が何だかわからないまま事が進んでいくので、実感が湧きにくい。

(そのつながりで言えば学校もそうだ。勉強もそうだ。学校に行くのも、勉強をするのも私であるが、何が何だか分からぬまま「行け」とか「やれ」ってことになってる。学校や勉強はそこまで悪いもんじゃないとは思うけど、何が何だか分からんままやらせることは超問題だと思う。不登校や不勉強よりも、そういった“調教”を是認&黙秘していることの方がよっぽど邪悪じゃないか・・・? 当時、それを面と向かって大人に言えなかったことも心残りだ。ただ「勉強したくない」と言うと、ただのなまけ者とかバカとか思われるバイアスつよいだろうな、というのもあり何も言えなかった。ガッデム)

このドキュメンタリー映画の主役のおじさんは、人を人として見ているようだった。その人が生きてきたことも、このさき生きていくことも、両方みながら患者と対話をして、指針を示していく。数をこなしていて、その水準を保つのは並の努力じゃできんだろうな。
あ〜、老後はぜひポックリ死にたいなあ。劇中紹介されていた老夫婦のじいさんからばあさんへ宛てた手紙(遺書)が泣けました。


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