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映画 「悪は存在しない」

ちゃんと読んでないので、にわか知識になりますが・・・たしかサルトルさんが書いた『嘔吐』という小説に、主人公が木の根っこを"木の根っこ"と認識できなくなりゲロを吐くというシーンがあったはず。
サルトルさんの場合、なにかじぶんの外にある対象(および"対象を見ている"自分の認識)がゆらいでいるわけですが、濱口さんが一貫してやってるのはその逆かな、と思います(誤解だったらごめんねサルトルさん)。
濱口さんの映画でほころぶのは、役がみた"対象"ではなく、"役"自身なので。キャラ本人が認識し、ふだんはコントロールできている"じぶん"から、否応なく逸脱していく。もう少し言うと、そこへ演者が"演技する"こと自体からの逸脱も、重ねていきたい。

ふだんは社会性を帯び、ほどよく縁取られた自分(意識)から逸脱していく。
どんな人でも、境遇次第でそうなるよね。ほら、ほら。

・・・と映画を撮ってる気がしてならないんですが、監督と会ったことないので全部わたしの妄想です。かってに「知的な露出狂」とこころのなかで呼んでます(いいいみ)。

ふだんはわりあい色恋モノが多いのだけど、今回はネイチャーな狂気に振り切っていた。(これまでは、意識のくびきを外す装置として色恋を使ってるという印象だったので、今回は色恋なしでやりたいことへ直進したのかしらと想像した)
タイトルは、濱口さんが山へでかけたときに思いついたらしいけど、たしかに海とか山にしばらくいると、下界のルールにがんばって適応している自分がアホくさくなる感覚がある。

海や山がきまぐれに人の命を奪うことがありますが、それは"悪意"なんてもんではなく、ただ海や山がそうだからそうなっただけ、と言った方がちかいと思います(『寄生獣』でもミギーが「地球は泣きも笑いもしない。ちっちゃな人間の視野で地球を曲解するのはおこがましいやろ」みたいなこと言ってましたね)。
それを人間の世界で試行してみたとも言えそうなので、深読みして「これはかくかくしかじかだったのだ!」な"正解"なストーリーにたどり着こうとするのはナンセンスなのかも。
けどたのしいから「こうかな?」って考えちゃうし、人それぞれの"読み"にその人さが炸裂するから、けっきょくするんだけど笑 それに映画自体、決してそういう"読み"を拒んでるわけでもないような気はします。"分からない"ことに絶望した上で分かろうとすることを、むしろ推奨してるような気さえする。

理解するにはキャパ超えな自然を、どうにか理解(支配)するために宗教やら神話やらつくってんのが人間、というのが私の理解なんですが、そんな自然のごときキャパ超え感をまとったものをあえて"人工的"につくってみようじゃないか、そしてほかならぬわれわれ自身のネイチャーさを目撃してみようじゃないかという気概を感じました。
濱口さんの映画の何が好きって、こういう共犯切腹感なんだよな。監督さんがセーフティーゾーンでふんぞり返ってつくったんじゃなくって、いつも危険スレスレのところへ近付かんとしてる気がする。だから見てる人も危険な場所に引きずり込まれるんだろうなあ。それが快感で、わたしは濱口さんの映画をみてる。

〜〜(以下、ネタバレ感想)〜〜

主人公である巧は、スレスレの意識下で娘の死を、じつは受動的に願っているのではと思わせるザルっぷり(スキのない人物なので、本人がいう "ついついいつも" という理由と性格が整合しない印象)、もっと言えばもはや生きてるのけっこうどうでもよいけど、あえて口にはしてこなかったような不吉さ(ながく充填されたしずかな高いエネルギー)、とても人間がデキていそうな町長さんがなぜか花の捜索を手伝わないなど・・・ダークな想像をできる余地がちりばめられていて、総じて不気味。
ずいぶん寡黙な映画なので、「え?なんで?」なキモみを噛みしめられるのが、この映画の特徴かもしれません。

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