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弘法大師5_和田姫命は讃岐三豊観音寺地区開拓の祖で弘法大師の祖先

はじめに

 この拙文は、弘法大師の祖先は、景行天皇の皇女和田姫命流れの佐伯氏かそれとも、東北平定の後捕虜となって讃岐に移住させられた蝦夷流れの佐伯氏かという話です。弘法大師を産んだ母親は、景行天皇の流れの佐伯氏の出身といわれています。しかし、佐伯氏は一説には、東北で平定された蝦夷の一部が讃岐に住まわされ、それが佐伯氏となったので、弘法大師の祖先は、蝦夷だという説もあります。
 この問題に関して、今日、郷里香川県観音寺市の同級生の清水氏から、フェイスブックに次のような投稿があり、私にとって、讃岐の古代史、特に弘法大師のルーツを考える非常に大きな示唆になりました。

以下は、清水氏の投稿記事です。

 今日は当市(観音寺市)の“結核・肺がん検診”。都合で家から遠い木之郷町公民館の会場に行きました。桜の木は残念ながらほとんど散っていましたが、札に勇ましいお姫様のことが書かれていました。この桜と、和田姫命との関係はわかりませんでしたが、もしかしたら「木之郷」は「姫之郷」だったのかもと思いました。

(この立札の写真では字が小さくて見にくいので、以下に、書き抜きを示します。)
姫桜(ひめざくら)
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命名の由来
 景行天皇の皇女和田姫命(わだひめのみこと)は、神櫛皇子(かんぐしのおうじ)とともにこの地に来住した当時、燧灘に悪魚が出没し渡海の邪魔をしていることを聞きこれを退治することを決意され戦勝を祈願するために伊弉諾伊弉冉尊の二神をお祀りし、無事に平定した。その時、  
 母神山(はがみやま)に父母(ちいろ)大明神宮が創建されたと伝えられている。
また木下(きのした)大明神は村人が和田姫命の徳をしのんでお祀りし、昔はコノモト大明神とも姫の下大明神とも奉称されていた神社は下木之郷にあったが、後に千尋(ちひろ)神社に合祀された。
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以下は、このことについて私の考えたことです

 この和田姫命は景行天皇の子供ということですので、日本武尊とこの和田姫命は兄妹ということですね。この和田姫命が豊浜町の和田に住んで、佐伯氏の祖となったのですかね。この神社があるこの木之郷町公民館から豊浜町和田は少し離れていますが、想像を掻き立てられます。また、弘法大師を産んだ母親は、景行天皇の流れの佐伯氏の出身といわれているので、和田姫命の末裔が、弘法大師のお母さんじゃないでしょうか。というわけで私はこの和田姫命は弘法大師と関係があるのではないかと想像しました。

 讃岐(香川県)観音寺三豊地区は、大昔、景行天皇の御子の神櫛王子と姫皇子の和田姫命が、この地に来て住み、きっとその時初めて、大和朝廷の支配下に入ったのではないでしょうか。そこはそれまで、出雲の大国主命の国だったのですが、朝廷の力が支配的になるに及び、きっと王子たちを派遣したものと思います。なんだか信州の成り立ちとよく似ています。
 母神山には多くの古墳があり、そのふもとにこの千尋神社があるのも、そうした歴史を表しているように思います。近くに大野原の木之郷、中姫、豊浜には姫浜、そして、大野原の山奥には海老済(えびすくい)、これらはみな、和田姫命とその末裔の佐伯氏と、密接に関係していると考えられますが、皆さん如何でしょうか。
 この姫桜の由緒書記の「燧灘に悪魚が出て、それを和田姫命が成敗した。」というのは、きっと、この地で朝廷にまつろわぬ住民、漁民を表しているように思います。これは景行天皇の頃ですから今から2000年くらい前の話ですが、これで和田姫命と佐伯氏、弘法大師までの約800年間の歴史が、つながります。

おわりに


 したがって、図示すると、血縁関係からは

      日本武尊
景行天皇
      和田姫命 → 佐伯氏 → 弘法大師の母親 → 弘法大師

となり、私は、弘法大師の祖先は、景行天皇の皇女和田姫命流れの佐伯氏だと考えますが、皆様どうでしょうか?


*なお、冒頭の写真および本文中の写真は、香川県観音寺市木之郷町公民館の「姫桜」の写真です。これらは、観音寺在住の友人、清水康司氏が撮影したものを使わさせていただきました。


平成31年(2019年)4月17日随筆
令和4年(2022年)3月6日加筆

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