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日本人はどのように成立したか

はじめに

私は日本人の成立に大変興味があり、これを歴史や地理から皆さんと一緒に考えてみたいと思います。結論から先に申し上げますと、日本人は、大和民族だけで成立しているのではなく、アイヌ人、ギリヤーク(ニブヒ)人、オロチョン(ウィルタ)人、小笠原白人などの多数の民族が混合同化してできたと考えられます。以下、個別に見ていきます。

アイヌ人について

 ほとんどの人はアイヌ人のことは知っています。しかし、多くの人が、アイヌ人は北方から北海道に南下して来たという誤解をしています。言語学や地名の研究から判明しているのですが、アイヌ語の起源は北海道ではありません。能登半島のノト、利根川のトネ、富士山の古名ふちの山のフチ、などはみんなアイヌ語です。信州にもアサマなどアイヌ語の起源の地名が残っています。上野国(上毛=こうづけ)や下野国(下毛=しもつけ)は大和朝廷に帰属した毛人(えみし)の国でした。えみしは蝦夷とも書くので、蝦夷=アイヌ人と考えられます。群馬県や栃木県はアイヌ人の住んでいたところなのです。そのため、東日本にはアイヌ語起源の地名が今もたくさん残っています。また、このような地名だけではなく、言語学の最新研究からも、東日本はかつてアイヌ語の世界だったことが強く示唆されています。つぎのYouTube, 「【日本語の起源】東アジアの言語史まとめ【仮説】」https://www.youtube.com/watch?v=EwLrtntJfCc が非常に注目されます。一度ご覧いただければ感銘を受けることと思います。このように、アイヌ語は、かつて中部地方から日本列島の東半分の広大な地域に住んでいた人々の言葉だったのです。したがって、間違ってはいけないのは、アイヌ語は樺太から北海道に南下してやってきたのではなく、全く逆に、本州から北海道へ、次に樺太や千島列島に北上していったのです。以上のように地名や言語学の研究から、アイヌ語はもともと本州の東半分で話されていた言語であることがわかります。つまり、アイヌ人は我々日本人の半分のご先祖なのです。
 このことからもわかるように、現在の日本人は、多くの民族が長い年月の間に混合同化して成立していったことは明らかです。
 一方、アイヌ人に比べて、ギリヤーク人やオロチョン人などになると一般の日本人にはほとんど知られていません。
 ギリヤーク人などの古代シベリヤ語族の人々は、かつて沿海州から樺太、北海道全域に住んでいました。古代には粛慎と呼ばれた人々でした。ところが5世紀頃から、東北から入ってきたアイヌの人々に押されて、徐々に居住範囲が狭まり、7世紀ころには北海道の北半分に狭まりました
 7世紀当時の北海道のことが古代の文献にも残っています。阿倍比羅夫は、斉明天皇4年(658年)に東北の蝦夷と戦い、服従した蝦夷を渟代・津軽二郡の郡領に定めました。また、次の年の斉明天皇5年(659年)には、北海道南部の蝦夷とも戦い、服従した蝦夷を胆振(いぶり)や後方羊蹄(しりべし)の郡領に定めました。さらに次の年の斉明天皇6年(660年)には、阿倍比羅夫が北海道をさらに北上して遠征した時、石狩川のほとりまで逃げてきた北海道の蝦夷(アイヌ人たち)が、阿倍比羅夫たちに、「自分たちは、北から異民族(粛慎=ギリヤーク人などの古代シベリヤ語族と思われる人々)が攻めてきたので、難を逃れてここまで南下して来たのだ。助けてほしい。」と話したことが、記録に残っています。そこで、阿倍比羅夫たちは粛慎から攻められた蝦夷の人々を助けて粛慎と戦いました。これらの古代の記録からも、北海道南部は、既に斉明天皇の7世紀には大和朝廷に服属していたことがわかります。当時、北海道では、このように粛慎とアイヌ人の間に民族の攻防があったことがわかります。この粛慎は、おそらくアイヌのユーカラ(英雄叙事詩)に出てくる異民族レプンクル(沖の人)と呼ばれる人々のことでしょう。

ギリヤーク人について

 しかしながら、ギリヤーク人などの粛慎の居住地は、13世紀頃には知床半島あたりからオホーツク沿岸だけになりました。オホーツク文化人として、サロマ湖周辺や羅臼などに遺跡を残しましたが、最終的には、さらにアイヌ人に押されて北海道オホーツク沿岸からも消えてしまいました。
 江戸時代には、ギリヤーク人はほぼ樺太の北半分とアムール河河口あたりに住んでおり、間宮林蔵は、北樺太に住むギリヤーク人の村長の助けを借りてアムール河中流のデーレンまで、すなわち清国の出先機関があったところまで行っています。当時、樺太の南半分の南樺太道に住んでいたアイヌ人たちは日本の番屋に貢ぎ物(今で言う税金にあたる)を納め、北海道と同様日本国に属していました。一方、樺太の北半分に住んでいたギリヤーク人たちは清国に朝貢し清国の領民でした1)。そのため、ギリヤーク人の村長は定期的にデーレンまで貢ぎ物を届けに行っていたのです。間宮林蔵はその村長に同行したのでした。現在、網走市あたりに住んでいるギリヤーク人たちは、戦後、南樺太道2)から北海道へ日本国人として引き上げてきた人たちです。話は少し飛びますが、日本人で北見市か網走市かの出身で、種田さんという人がいます。種田さんは30カ国語ぺらぺらという人で有名な方ですが、少年の頃、網走に住むギリヤーク人の中村何とかというおばあさんのギリヤーク語の録音テープを聴いてから、語学に目覚めたといいます。樺太ギリヤーク語の本は戦前の昭和17年に朝日新聞社から出たものがあるだけです。私はこの本を大阪の古本屋で見つけ、買って持っています。大変貴重な本です。また、大阪あたりで活動している大道芸人に、「尼崎ギリヤーク」と名乗る人がいますが、この人は南樺太道か北海道出身の方でしょうか。大阪あたりで、ギリヤークという名前を聞くのは大変珍しく、また体中白く塗って路上で踊っているというので、ちょっと近寄りがたいのですが、出身を聞いてみたいものです。噂によると、北海道の札幌かどこかで路上で踊っていたら、北海道の人から、お前はギリヤーク人に似ているといわれ、それが気に入ってそれ以来出身地の尼崎にギリヤークをつけて「尼崎ギリキャーク」と名乗っているのだと聞いたことがあります。多分、本物のギリヤーク人ではないのでしょう。

オロチョン(ウィルタ)人について

 一方、オロチョンの人たちはオロチョンの火祭りで有名ですが、北方少数民族資料館「ジャッカ・ドフニ」を1978年8月網走市大曲に創設した初代館長の北川源太郎さんによれば、オロチョンの火祭りというのは本当はなく、熊祭りしかないそうで、誤解だそうです。オロチョンは自称ウィルタといい、トナカイを飼う人という意味です。やはり北方系の民族でありシベリヤから満州にかけて住んでいるツングース系の一民族です。北川源太郎さんは、ウィルタ名をダーヒンニェニ・ゲンダーヌといい、樺太ポロナイ河口オタスの出身です。ここに住んでいた10数人のウィルタの人たちも戦後南樺太道から日本国人として引き上げてきました。なぜ一緒に引き上げてきたかというと、戦前は南樺太道に少数ながら住んでいたオロチョン人やギリヤーク人は日本国人なので一緒にソ連と戦っており、もしそこに残ればソ連に捕らえられてしまうからです。彼らは、雪上のトナカイを飼育したり、氷上のオットセイなどを鉄砲で狙って捕ったりして暮らしていました。そのため雪中や氷上の行動には慣れており、酷寒の軍事行動において彼らの能力は高く買われていました。ウィルタ人の北川源太郎(ゲンダーヌ)さんは、2019年第162回直木賞受賞作、川越宗一著「熱源」の登場人物のモデルの一人として描かれています。この本の中では、戦時中樺太でトナカイに乗ってソ連と戦う日本兵、源田として登場します。北川源太郎さんなどは日本国人としてソ連と戦いシベリヤに抑留され、大変な苦労をされました。
 日本国人として戦争で一緒に戦ったのに、北海道に引き上げてから軍人恩給などが支給されず、市役所や役場に訴えて行っても、なぜ国から支給されないのか市役所や役場ではかわからないと言う答えだったといいます。北川源太郎さんがおじいさんになって札幌に移り住んだ1980代の後半に、NHKテレビに出て、こう語って政府の無策に憤慨していたのを思い出します。これらの少数民族の人達は中央政府にアイヌ人以上に存在さえ忘れ去られているのです。ですから、1986年の中曽根首相の日本人は単一民族という発言が出るのです。この発言にはアイヌ人を中心に激しい反発がありました。当時パリに住んでいた私さえもこのことをニュースで知っていたくらいです。しかし、オロチョン(ウィルタ)人やギリヤーク人の人達はアイヌ人以上に、一般の日本国民にも知られておらず残念です。最近、オロチョンという名の即席ラーメンが出てテレビでコマーシャルをやっていました。何で、ラーメンの名前がオロチョンなのかわかりませんが、一般の人達にもっと彼らの存在を知ってもらいたいものです。

小笠原白人について

 さて、小笠原白人は、江戸時代から小笠原に住む、ポルトガル人などの漂着船員の子孫です。江戸時代から小笠原は日本の領土であったので、白人であっても元々日本国人です。シボレー家は、瀬堀と言う漢字を当てていると聞きました。幕末のペリー来航の折り、諸外国に小笠原諸島を、国際的に日本の固有の領土と認めさせる外交努力があったと聞いています。戦前、アメリカとの戦争が激しくなったとき、島民は本土へ疎開しましたが、目が青いのでスパイに間違えられたりして大変苦労したといいます。男たちは日本海軍の兵士として戦争に行ったそうです。戦後島民は小笠原諸島に帰りましたが、1972年に、小笠原は沖縄とともに日本に返還されるまでアメリカの統治下にありました。1972年、東京都から小笠原の義務教育のため、派遣された先生が当時の状況を書いた本を読んだことがあります。戦後生まれの子供たちは、アメリカ統治下、英語で教育を受けていたので、派遣された小学校の先生は英語のできる先生でしたが、日本語へ教育システムを切り替えるときの、滅多に聞くことの出来ない、苦労話が書かれてあり大変興味深かったのを覚えています。

沖縄人について

 一方、沖縄のことも考えてみます。沖縄は、独自の琉球王朝をつくっていましたが、明治以前は鹿児島藩の属国でかつ清朝への朝貢もするという二重支配された国でした。しかし、言語学的には、沖縄の言語は、奈良時代に日本語から分かれたことがはっきりしている世界で唯一の日本語系の言語です。方言と言われていますが、沖縄の言葉は、標準語からは容易には、というより全く理解できないので、標準語と沖縄方言の差は、フランス語とイタリア語の差よりもずっと大きく、ヨーロッパだったら別の言語と分類して差し支えないくらいです。でも沖縄語は日本語族の言語で、言語から考えても沖縄の人たちは日本人です。

台湾の高砂族について

 沖縄よりもっと南方の台湾のことも考えてみましょう。戦前、台湾は日本の領土でした。台湾には漢民族以外に、戦前は高砂族と総称され、戦後は山地人(サンチーレン)と総称される、漢民族が上陸する以前から住んでいる沢山の種類の先住民族がいます。アミ族、タイヤル族、ピューマ族などで、言語学上、インドネシア語系の民族の人々です。
 古代の日本にも、南九州に、熊襲と呼ばれる民族が住んでいました。熊襲は、2つの民族の総称で、それは、球磨(くま)族と曽於(そう)族のことです。これらの民族は、飛び魚を追って台湾から北上してきて南九州に定着したのではないかと考えられます。大変興味深いことに、それを裏付けるように台湾の高砂族の中のツォウ族の間には、大昔ツォウ族の人たちの中に日本に移住していった人がいるとの古い言い伝えがあり、それは、熊襲のうちの曽於(そう)族のことではないかと推定されます。現在、宮崎県と鹿児島県境辺りにある鹿児島県曽於(そう)市は、その民族が住んでいたところと考えられます。
 また、熊襲と隼人の関係ははっきりしませんが、熊襲はまだ大和朝廷に服属しない蕃族で隼人は徐々に服属していった半熟蕃ではないかと考えられます。その証拠に、12世紀頃まで独自の言語・習慣を維持していた薩摩隼人と呼ばれた人達は、勇猛であったので、平安京の御所の警護にあたっていたそうです。隼人の言葉もこのインドネシア語系統といわれています。12世紀頃にはこの隼人の警護員が朝、発する独特の叫び声が宮中で聞かれなくなったという記録が残っているそうです。だんだん、同化が進んだ結果でしょう。   
 ところで阿蘇はインドネシア語で火を噴くと言う意味だそうです。従って、フィリッピンからバーシー海峡をわたり、台湾、薩摩と続く地帯の諸民族は、インドネシア語系の人々だったようです。これらの民族は、黒潮に乗って移動する飛び魚を追って、フィリッピン、台湾、南九州に広がって行ったものと考えられます。
 戦前、台湾の先住民族の高砂族に初めて学校教育を、日本語で行いました。それまで、高砂族には学校というものはなかったので、彼らにとって歴史上初めての学校教育でした。それで、各民族はお互いに言葉が違ってそれまで通じなかったのが、以後、日本語が共通語となったといいます。今でも、台湾宜蘭県の山奥に行くと日本語(宜蘭クレオール)が話されているところがあるのはそのためです。そのことを全く知らなかった日本人の駐在員が、遠出のドライブをしていて道に迷い、山奥で立ち往生していたところ、山の中から、一人の少女が現れ「あんた、どこから来た?」と日本語で聞かれて、驚愕したという話が残っています。
 台湾の先住民は勇猛で、特にタイヤル族の武勇は有名でした。昭和の初めころまでは、タイヤル族の男子が成人するには敵対する村の男の首を狩ってこなければならないとされていたので、首狩り族あるいは蕃族とおそれられていたといいます。そして捕虜となるのはきわめて恥であり、捕虜となるより自ら命を絶つのが美徳とされていました。まるで日本の武士のようです。日本にも彼らの基層文化がかつて存在し、影響があったものと思われます。
 戦後30年近くもたった昭和49年(1974)年、南洋のインドネシア、モロタイ島で発見され、台湾に帰還した元日本兵に、中村輝男さんという方がおられましたが、この方は確かアミ族出身で、アミ語の名前は、スリヨンといいます。台湾に帰ってきたとき、台湾の記者が北京語で聞いても返事せず、日本語にしか返事をしませんでした。それもそのはずで、彼はアミ語、日本語、福建語は理解できても、北京語は全くわからなかったからです。中村輝夫さんは、戦争が終わった後、台湾が、大陸から来た国民党に支配され北京語が使われていることなど知らなかったのです。いわば、浦島太郎になっていたのです。中村輝夫さんは、日本政府から未払いの兵隊の給料と見舞金として500万円をもらい、帰還後、幸せに暮らし、7年後に亡くなったといいます。日本国人として戦争に行った多くの台湾出身の兵士の未亡人達は、戦争に行って帰ってこない自分の夫も、中村さんのように生きて帰ってくるのではないかと思い、皆、涙したといいます。
 戦後は、彼ら先住民族の高砂族は中国語で山地人(サンチーレン)と呼ばれています。最近は、日本のプロ野球に、沢山、山地人の人達が来て活躍しています。もう引退しましたが、剛速球投手の郭太源さんなど、みなさんも知っている選手が多いです。また、戦前の全国中等学校野球大会の甲子園にも、台湾から出場していました。たとえば、台湾中部の嘉義農林の野球部が甲子園に出場しています。その選手の多くは高砂族の出身の生徒であったといいます。この嘉農(KANO:嘉義農林)が昭和6年(1931年)に甲子園に出場した模様は、2014年の台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」に熱く描かれ、大ヒットしました。当時は、樺太から台湾までの生徒が出場していたのですから、すごいことです。この例を見てもわかるように、戦前には今よりもずっと多くの民族が日本国内に含まれており、多民族国家だったことがわかります。
 以上見てきたように、現在、多くの日本人が、無意識に日本人は単一民族で均一な人種と思っているますが、古代から現代にいたるまで、多くの民族を内包して同化を重ねて徐々に今の日本人が形成されてきたことがわかります。

大和朝廷と江戸幕府に共通した「血縁による版図拡大法」

 日本列島はとても細長く、古代には100を超える国や多く種類の民族がおり、それぞれの言語や風習があったものと考えられます。これを、大和朝廷は、天皇を中心にどうやって、統一したのでしょうか。それは、大和朝廷に服属していった民族の首長や有力者の娘と結婚をして姻戚関係を結ぶという方法をとったと考えられます。その姻戚関係による同盟という方法が、一番、争いがなく平和裏に国土を広げる方法であったのでしょう。日本中親戚だらけになるのですから、地方の有力者も反乱しにくくなります。徳川幕府も同様に、大奥を作り将軍の血筋が絶えないようにして、多くの大名と徳川家は姻戚関係を結んで、264年も続く江戸幕府の安定の基礎を図っています。これはどうも、歴史学者の宮脇淳子先生によるとモンゴルが大帝国になったときの方法と同じようです。次のnoteの記事をご参照ください。https://note.com/ko52517/n/n0d4d4589a252

 以下にその要点だけを述べます。モンゴル人が異民族の都市を落として、そこを支配すると、そこの王様の娘と、チンギスハーンは結婚して、親戚となり、版図を広げることを繰り返します。そうするとチンギスハーンの子供が1000人も生まれたという事です。この子供たちのうち女の子は、モンゴルの将軍などと婚姻関係を結びます。男の子でしたら、またモンゴルの有力者から娘をもらい、血縁関係を濃くしていきます。こうやって、ユーラシア大陸全土の異民族と血縁関係を結んで、版図を広げていったとのことです。モンゴル人の女の人は、みんな馬にも乗り、お嫁に行くときには親から家来と財産をもらって嫁いでくるので、経済的に独立しており、その家来を戦争に送り出した場合に、得た戦利品は、自分の所得となり、裕福となっていきます。したがって、モンゴル人の女の人は、男と平等であり、政略結婚の犠牲者などというイメージとは全く別物です。モンゴル帝国の、勢力拡大は、その土地の有力者にモンゴル人のお姫様が嫁いでいくということを次々に繰り返し行うことが、行動原理となっていることが分かります。

 私は、この血縁による版図拡大が、大和朝廷の天皇家でも、江戸幕府の徳川家でも行われてきたのだと思います。戦後の天皇家でも、昭和天皇の皇女の方々は、元岡山藩主の池田家や、元島津藩主の島津家など地方の有力者に降嫁されたのは、この行動原理によるものだと思います。ところが、最近、昭和天皇のお孫様の秋篠宮家では、2人の皇女がこのことを軽視されているようにお見受けし、国民の一人として大変残念に思っています。有力な家系の男性を選ばず、ただ好きな人と結婚できればいいというのでは、早晩、天皇家は衰退していくに違いありません。伝統を無視して過度にアメリカナイズされることを心配する国民が大勢いることを、秋篠宮家の皇女の方々に是非知ってもらいたいです。


注釈
1) ちなみに、幕末から明治初期になると、清国が衰退しロシアが進展してアムール川河口や北樺太まで達しました。そのとき、アムール河河口から北樺太に住むギリヤークの人々は、今度はロシアに組み込まれることとなりました。これが戦前、北緯50度線に日ソ国境が引かれた歴史的な原因になっています。
2) 現在、都道府県で、道とつくのは北海道だけですが、戦前はもう一つ道がつく地域がありました。それは南樺太道です。
3) 統計は全くないのですが、戦後かなりの数の台湾の高砂族の方々が日本に帰化したらしいです。なぜかというと、中村輝夫スリヨンさんの例を見てもわかるように、戦後大陸からやって来た国民党の政権下では、北京官話が出来ない人は、台湾では就職も困難で社会的に出世できなくなりました。もともと福建語を話す台湾在住の漢民族ならまだしも、先住民の方々は、北京官話は更なる言語的に大きな壁になってしまいました。中年になってから、今更北京語をやれといわれても大変だったので、日本に移住して帰化されたと聞いています。また、台湾に残った人たちも、家庭では今も日本語を使っている人がいるというのを聞いたことがあります。戦前嘉義農林から甲子園にピッチャーで出場された方はアミ族で、奥さんは漢民族であったので、戦後も家庭では共通語の日本語ですごされており、今も毎朝おみそ汁を飲んでいるというのを、昭和50年代に日本に来られたとき語っておられるのを実際聞いたことがあります。(ご参考:鈴木明著「高砂族に捧げる 」 中公文庫、1980年)

信州上田之住人和親
2001年8月5-8日随筆
2002年7月7日加筆修正
2021年10月29日加筆修正

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