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20世紀の記録として残したいこと(第5話)奇跡の最終列車に乗り、安東から京城まで朝鮮半島を南下して逃げる

5-1. 朝鮮語で言え


 
 1945年8月17日、父母と幼い2人の兄たちは、満州国安東(現丹東)から朝鮮の京城(ソウル)に行けるおそらく20世紀最後の列車に乗りました。それ以後、38度線が閉鎖され、朝鮮半島を縦断する列車は77年たった今もありません(注1)。このような奇跡の最終列車に乗って、再び父は家族とともに安東から京城に向かいました。安東を8月17日朝に出て、京城にはその日17日の昼1時頃に着きました。その頃ようやく引き揚げ者の支援組織が整いつつあるところで、駅に着くと、婦人会の炊き出しがあり、おにぎりをもらって子供たちに食べさせたりして一息つきました。そこから山の手に住んでいる母の叔父、高嶋利雄、に車で向かえに来てもらおうと電話をしました。そのころの電話はもちろんプシュホンでもダイヤル式でさえもありません。若い方はもう知らないかもしれませんが、電磁石式で電話の横にハンドルがありこれを回して交換手を呼び出します。そして、母は電話交換手に叔父の電話番号を告げたところ、交換手に、「日本は負けたのだ。日本語では取り次がない、朝鮮語で言え。」と言われて切られてしまいました。仕方なく、暑い8月のさなか、すり鉢状になった京城の中心から山の手の孔徳町(朝鮮京城府孔徳町11番地155号)まで、幼い2人の子供を連れて叔父の家まで歩いて向かいました。
 

5-2. 高官の叔父の家に身を寄せる


 
 京城の高嶋利雄叔父の家に、何の予告もなしに着いたのに、叔父は父母に向かって「おお来たか。来ると思っていた。」と言ったそうです。叔父はソ連参戦の状況から、父母達は早晩満州から朝鮮の叔父を目指して避難してくると予想していたようでした。 
また、母の妹の話によると、京城に着いた時、既に子供は二人ともはしかにかかっていたそうです。はしかは御存知のように、発熱した時には絶対体を冷やしてはならず一週間は動かさず安静にして滋養していないと命に関わります。多くの方が書き残しておられるように、ハルビンや新京、奉天の小学校を仮設難民収容所にした所では、布団も毛布も満足に無く一日一食のコウリャン粥だけでした。そこでは寒さと飢えで大人だけではなく沢山の子供達が死んだのは、このような伝染病に体力が持たなかったためです。戦争の後は伝染病が必ず蔓延するとはこのことでしょう。もしこのとき叔父の家に着いていなかったら、二人の子供は日本の土を踏むことなく死んでいたでしょう。太田一家が生きて帰れたのは、京城の叔父の存在が非常に大きく、正に命の恩人と言えます。
 叔父高嶋利雄は朝鮮食糧営団次官をしており、朝鮮食糧営団のNo.2でNo.1には日本国内の大臣の古手が天下りしてくる仕組みだったので、官僚としては当時の朝鮮食糧営団では一番上でした6)。しかし、朝鮮も日本国内同様大変物資に窮乏していたらしく、叔父の家に泊めてもらっていた間に次のようなことがありました。満州から逃れてきた夫婦の目にも、叔父の家では食糧不足が深刻な様子が痛いほどよくわかりました。ご飯の後、なんと尊敬していた叔父がお皿に残った食べ物を舐めたのです。大変な状況の時に家族4人して厄介になり身の縮む思いだったと言います。このような状況がよくわからぬ当時5歳の幼い長男がごはんのお代わりをしたのが、恥ずかしさとともにいまだに思い出されると父母は言いました。そこで、引き揚げ者の支援組織に配給がもらえるように申請し、さらに駅の炊き出しをもらいに行くとかしてしのいだそうです。配給と言ってももう若い人にはわからないでしょうが、戦前と戦後昭和30年代までくらいは、米穀は配給制で住民登録などがないと売ってもらえない仕組みでした。配給というのは無料ではなく統制経済制度という意味です。主食のお米など必需品の価格は統制経済制度になっていたというわけです。
 京城の叔父の家には8月30日まで泊めてもらいました。なぜそんなに長くいたかというと、子供のはしかもあったのですが、最大の原因は釜山から内地に渡る船が出なかったからです。たくさんの機雷が撒かれており、またほとんどの船は戦争で失ってしまっていました。
 

5-3. あと二日したらアメリカ軍が来る


 
8月30日になって、叔父が父母に「あと2日して9月1日になるとアメリカ軍がやってきて朝鮮の施政権が完全に日本からアメリカに移る。それまでに釜山から関釜連絡船で日本に帰る方がよい。8月31日に釜山から、日本が管轄する最後の興安丸が出るそうだ」と教えてくれました。叔父は残務整理のためアメリカ軍が来てからもここに留まるつもりだとのことでした。アメリカ軍が来ると日本人の全財産は没収され、いつ帰れるかわからなくなるとのことでした。そこで急いで、次の日の8月31日の朝、夫婦と子供二人で京城(ソウル)をたち釜山まで汽車に乗っていきました。
 
 
 
 

注1


 藤原てい著「流れる星は生きている」によると、8月18日ころ、38度線が閉じられ北はソ連軍、南はアメリカ軍の支配下となりました。それ以降は朝鮮半島を縦断する列車はなくなりました。戦後77年たった今もありません。そのため、1日でも朝鮮半島を南下するのが遅れたら、日本人難民は、何百キロも歩いて、当時アメリカ側の支配地だった開城まで行き、38度線を越えなければなりませんでした。「流れる星は生きている」によると、悲惨な逃避行の間に、乳飲み子を抱えた多くの家族が死んでいったことが書かれています。この本を書いた藤原てい氏は、作家新田次郎氏の妻で、数学者の藤原正彦氏のご母堂です。
 また、井上卓弥著「満洲難民 三八度線に阻まれた命」にも、満州から北朝鮮の「郭山」まで逃れてきて、そこで極寒のなか越冬している間に、多くの家族が次々と亡くなっていく悲惨な状況が出てきます。北朝鮮の「郭山」で難民となった方々は、多くは満州国の中級公務員の妻子で、38度線がソ連に封鎖されたために帰国できず、極寒の中で越冬の際、住居不備、栄養不良、伝染病で半数以上の方々が亡くなりました。
 このようにほんの1日違いで、38度線が閉じられて、列車では38度線を越えることができなくなったことがわかります。私の家族が乗った列車は、本当に奇跡の最終列車だったのです。
 
 *なお冒頭の地図は、下記の無料の白地図データから引用させていただきました。、https://www.freemap.jp/itemFreeDlPage.php?b=asia&s=korea

2000年12月10-12日随筆
2001年4月18日加筆
2001年4月27-29日加筆
2001年6月14日加筆
2003年4月26-30日追記と修正
2003年6月12-13日修正
2003年8月11-16日最終修正
2022年5月27日7編へ分割編集
 
本記録に関して

本記録は、20世紀の記録として是非、残しておきたいと思い、生前の父太田安雄(通名は康雄)、香川県三豊郡山本町(現三豊市山本町)在住、から、聞き書きした記録文です。父は、大正5年(1916年)9月14日生まれで、平成15年(2003年)4月5日、87才になる年に亡くなりました。聞き書きしたのは、西暦2000年から2002年の3年間です。父が生きている間に、是非、貴重な記録として残しておきたいと思い、父やのちには親戚からも取材し本文をまとめました。非常に長くなったので、話題ごとに7編に分割掲載いたしますが、どの話題も皆さんがほとんど知らない大変興味深い話だと思いますので、ご一読頂ければ幸いです。
 

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