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20世紀の記録として残したいこと(第2話)父は満州国歌を中国語で歌える最後の日本人だった

2-1. 満州国歌を中国語で歌える最後の日本人


 
 父は、満州国歌を中国語で歌える最後の日本人だと思います。それで、どうしてもこのことも皆さんに知ってもらいたくて書いておきたいと思います。
満州国は、昭和7年つまり西暦で1932年に建国され、昭和20年・西暦1945年に滅亡しました。1932年9月15日日満議定書が調印された時を以て満州建国とされています。1934年1月に溥儀が皇帝に即位しその年に満州国独自の元号が定められました。満州国の元号は康徳と言います。康徳は元年から12年まで続きました。康徳12年・西暦1945年8月に満州帝国は滅亡しました。滅亡して今年ですでに55年になり、その国歌を中国語で歌える人はもう父をおいて他に日本にいないのではないかと思います。何故かと言えば、多くの日本人が戦前満州に住んではいましたが、植民地特有の意識として地元の言葉を習得するよりも日本語を押しつける方が勝っていましたので、中国語を当時しゃべれる日本人はほとんどいませんでした。また、今年(西暦2000年)、父が84歳の高齢になり余命幾ばくもありませんので、20世紀の記録として、満州国歌を映像と音声にしてなんとか残しておかねばならないと私は常々考えていました。しかし、息子の私は郷里香川県を遠く離れて長野県に住んでおり、父とは滅多に会えません。幸運にも2000年10月に郷里近くに出張の機会があって、その帰りに実家を訪ねて、満州国歌を独唱する父をビデオに撮ってきました。また2001年3月にも出張の機会があって、このときは歌詞と楽譜のコピーももらってきました。
 
(ビデオ:満州国歌を独唱する父 西暦2000年10月29日撮影)
 


(楽譜)

満州国歌楽譜:この楽譜は時の香川県三豊郡山本町の町長原学氏が新聞社に言って譜面共々でわざわざ家まで持ってきてくれたのでうちにあるということです。(2003年5月7日母のメモ)

2-2. 満州国歌の歌詞


 
父が中国語で歌った満州国歌の歌詞[1]は次のようなものでした。
 
(父直筆の歌詞)
 

父の直筆の歌詞。達筆で驚きます。父は昔から字がきれいでした。

自筆は読みにくいかもしれないので、テキストでも下に示しておきます:

天地内有了 新満州新満州
便是新天地 頂天立地
無苦無憂  造成我国家
只有友愛  並無怨仇
人民参千萬 人民参千萬
縦加拾倍  也得自由
重仁義   尚禮譲
使我身修  家己齋
国己治   此外何求
近之則興  世界同化
遠之則興  天地同流
 

2-3. 満州で外交官を目指し中国語を猛勉強


 
父は、昭和9年(康徳元年)17歳の時長兄とともに満州に渡りました。父の一番上の兄、太田竹市は明治34年(1901年)生まれで父よりも15歳も上で、当時香川県丸亀市の市会議員をやっていました。長兄は香川県下で最年少の市会議員でした。そして、香川県の視察団として満州を視察した後、これからは満州だと言うことで、昭和9年に末の弟の父を誘って、満州に渡って事業を始めました。長兄は岩田公六郎氏と一緒に、日本から満州国首都の新京市(現在の長春市)へ大勢赴任してくる官吏の生活を支援する組織の満州国官吏消費組合を設立し、この組合の中に満州白洋舎も併設しました。ちなみに、この満州白洋舎のクリーニングで外渉をしていた父のお得意さんには、後の日本国総理大臣の岸信介氏や、後の日本国農林大臣の根本龍太郎氏、後のNHK会長の前田義徳氏、当時の満州国国務総理の張景恵氏などがいたそうです。父は長兄を手伝いながら、最初、満州新京市で外交官になろうと思い、中国語を一生懸命勉強したそうです。父の中国語は中国人も本当の中国人と間違うほど上手であったそうです。現地で徴兵されたとき、毎晩将校に呼ばれて中国語の教師をしました。それで、将校と同じ豪華な夕食を食べられたそうで、大変優遇されたとのことです。
 

2-4. 会社経営へ転身


 
長兄が昭和12年(康徳4年)にハルビンの官吏消費組合の支店長として赴任するのに伴い、父もハルビンに転居します。父はその中国語を生かし、中国語のできない長兄に代わり大いに商談をまとめたそうです。昭和14年(康徳6年)には、長兄と父はさらに牡丹江市へ転居して大東商会(牡丹江省牡丹江市西聖林街11-7 電話3555番)という自らの会社を設立しました。大東商会では、軍から依頼されて大量の建築用煉瓦を焼成して納入していました。中国の北方地方では赤煉瓦(磚:ゾワン=煉瓦)が主な建材だったからです。大きな丸窯(馬蹄窯:マテイヤオ)で一度に十万個もの赤煉瓦を作っていたそうです。1)その時長兄は、満州国香川県人会の会長も務めていました。
 

2-5. 新規事業に乗りだし独立


 
昭和17年(康徳9年)には、父も独立して会社を牡丹江市で興し、中国人の張魁元さんと砲台用の荷車を製造する三明鉄工所という会社(牡丹江市新立屯街16-1 自宅兼用で玄関に「牡丹江荷車製造組合 電話5767番」の看板を掲げていた)を経営していました。日本で作った軍用車両は車輪の幅が狭く満州の地では解氷期には泥に埋まってしまい使いものにならなかったそうです。そこで、父の会社では轍(わだち)が日本の3倍のものを作りそれに鉄の輪をつけて、満州用の車両を製造し、関東軍や農産公社、満鉄に納めていたと言うことです。この製造に必要な製鉄用の1/8屯(トン)のエアーハンマーの設計図を、大阪在住で鉄鋼会社を営んでいた次兄の太田繁数より送ってもらい、これを満州のハルビンでつくらせて鉄の輪やシャフトを製造していました。中国人労働者を600人ほど使っていました。父の在外資産は、当時香川県出身者で大変多い方だったと聞いています。また、近くにあった秋田県からの開拓団の小学校にピアノを贈ったりしました。2)中国人にも信頼あつく、日本軍からも大事にされていたそうです。
なお、共同経営者の中国人の張魁元さんは、もし今生きていても100歳くらいにはなるので、おそらくもう生きてないと思われます。父は生きているうちに彼にもう一度会いたかったが、もう自分も高齢で中国には行けないので、もし彼が生きていても無理だと言っています。彼には当時15歳と12歳くらいの息子が2人いたので、もし私が中国に行ったら訪ねてくれといわれています。二人の息子の名は、張茂盛(ムーション:兄)、福盛(フーション:弟)といったそうです。
 

2-6. 父と将軍との出会い


 
同じ香川県三豊郡上高野村の出身の斎藤弥兵太中将は、父の長兄竹市と本山高等小学校で同級生だったそうで、この斎藤中将に満州でお会いしたとき、同席されていた山下奉文中将と山田乙三(おとぞう)少将に、「この太田君は大変満人に信用されている。」と紹介していただいたそうです。山下奉文中将は、後にシンガポールを陥落させて、敵の英国将軍パーシバルにYesかNoかと迫り、マレーの虎と言われた、あの山下奉文大将のことです。山田乙三少将は、後に関東軍司令長官になられた方です。また、父は、憲兵に引っ張られ拷問を受けていた無実の中国人を、私が保証するからと何人も助けたりしたそうです。それで、当時、牡丹江やハルビン、新京、奉天、吉林など多くの都市で太田康雄(タイテン カンシュン)という名前は多くの中国人に知られていたと聞きました。
 

2-7. 中国人の村長さんからプロポーズ


 
ソ満国境近くの中国の二人班村という所に、600人の中国人労働者用の食料の小麦粉を買い付けに行ったときには、村長に、「あなたの中国語はとてもきれいだ。それも正式な北京官話で、日本人とは絶対わからない。あなたは独身か。独身なら、うちの娘をもらってやってくれ。」と言われたとのことです。当時の大阪外大や東京外大を出た人でも、現地で習った父とは違って、父のようにはしゃべれなかったそうです。そのため軍関係者からもその語学力を頼りにされていたとのことです。
 
*なお、参考文献等は第7話にまとめて示しました。
 
 
2000年12月10-12日随筆
2001年4月18日加筆
2001年4月27-29日加筆
2001年6月14日加筆
2003年4月26-30日追記と修正
2003年6月12-13日修正
2003年8月11-16日最終修正
2022年5月27日7編へ分割編集
 

本記録に関して


本記録は、20世紀の記録として是非、残しておきたいと思い、生前の父太田安雄(通名は康雄)、香川県三豊郡山本町(現三豊市山本町)在住、から、聞き書きした記録文です。父は、大正5年(1916年)9月14日生まれで、平成15年(2003年)4月5日、87才になる年に亡くなりました。聞き書きしたのは、西暦2000年から2002年の3年間です。父が生きている間に、是非、貴重な記録として残しておきたいと思い、父やのちには親戚からも取材し本文をまとめました。非常に長くなったので、話題ごとに7編に分割掲載いたしますが、どの話題も皆さんがほとんど知らない大変興味深い話だと思いますので、ご一読頂ければ幸いです。

*なお冒頭の写真は、満州国国旗です。Wikipediaから引用させていただきました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Flag_of_Manchukuo.svg  2018年11月12日 (月) 16:12 更新分


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