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海野小太郎物語

1.奈良女子大学の阿部先生のルーツ?

「O田さん、私信州の坂城(さかき)の生まれで上田高校の出身なのよ。」と奈良女子大学理学部化学科の阿部Y子先生は、共同研究のため奈良女子大学を訪れていた私に、言いました。私は、上田市にある信州大学に勤めています。阿部先生は続けてこう言いました。「私は結婚する前の旧姓は海野(うんの)というの。でも海のない山国の信州でどうして海野というのか、昔から不思議に思っているのよ。」
確かに、明治以前から海野と名乗っていたといいますから、不思議に思うのは当然です。阿部先生は坂城町の舟山郷(注1)で、一族が住んでいて、今も阿部先生のお兄さんは舟山郷に住んでおられ、上田市丸子町の会社に社長としてお勤めとのことでした。舟山郷の海野一族のお墓は今から約280年前の1742年(壬戌寛保2年)の千曲川の大洪水、「戌の満水」のときに全部流されてしまって、それ以前のことがよくわからないとのことでした。舟山郷の海野一族で親戚の伯父さんが、昔、家系の調査を熱心にしていたが、その時、漏れ聞いたところによると、今の東御(とうみ)市にある海野宿から分家して、坂城町の舟山郷に移り住んだらしいとのことでした。

2.海野宿と白鳥神社

私は2002年ごろから3,4年間、上田市とその周辺にある全ての神社仏閣を訪ね歩いていました。その時、海野宿といって江戸時代の宿場町がそっくりそのまま残っている旧跡を訪ねました。この宿場町の入り口のところには、白鳥神社という2000年を越える歴史のある古い神社があります。この神社には日本武尊が東征した時に立ち寄ったといういわれがあります。それから数百年して、海野氏がこの地にやってきて定住して、白鳥神社は海野氏の氏神とされました。
ご参照:note記事、https://note.com/ko52517/n/nc8ab8a319762の写真―24~26。

3.海野氏のルーツは百済の水軍

海野氏がなぜこの地に来たかは、海野宿に住む郷土史家の宮下なお子氏から、お伺いすることができました。宮下氏によると、「百済が新羅と唐の連合軍に進攻され、滅亡の危機に瀕しました。その時、同盟国である日本は百済を救うため、多数の兵士を送りましたが、西暦663年の白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れ、百済は滅亡しました。百済の水軍は日本に逃れ、大河の信濃川を遡って、今の海野宿の辺りまで来て、そこで舟を下りて定住しました。昭和の初めに信越国境付近に大きなダムができるまでは、信濃川は舟で海から直接遡ることができたのです。ですから、信濃川、つまり、千曲川は、昭和8年にこのダムができるまでは大量に鮭が取れ、昭和24,5年に取れなくなるまで鮭の遡上があったといいます。この大河は新潟県側では信濃川といいますが、長野県側では千曲川というのは御存じかと思います。その千曲川も、上田や東御までは、川幅も広く、流れも緩やかで舟でさかのぼれますが、海野宿より川上の小諸まで遡ると、川幅が狭くなり急流となり、舟で遡れなくなります。ですから、海野宿の白鳥神社前の広い河原、白鳥河原で、百済の水軍は舟を下り、ここに定住した。」といいます。海野氏はここの白鳥神社を氏神とし、菩提寺は、海野宿近くにある海善寺です。
 海野氏は、鮭と製鉄で大いに繁栄しました。ここの製鉄の技術は百済からもたらされた先進技術でした。地名の金井は鉄鉱石を採掘する鉱山を意味していました。この辺りに金井という地名があるのはそのためです。また鮭は大河千曲川に毎年大量に遡上するため、多くの富をもたらしました。そのため、周辺の武将はこの地を領有することを目指し、たびたび進攻してきました。戦国時代の1541年(天文10年)、海野宿の海野氏は武田に攻められ、当主の海野小太郎幸義は、千曲川と神川が合流する地点近くの丘で戦死し、海野宿の海野氏は滅亡しました。しかしながら全国に海野氏がおり、今もここの白鳥神社と海善寺は、全国の海野氏から崇敬されています。
以上の調査結果を、電話で奈良女子大学の阿部Y子先生にご報告したところ、大変喜ばれ、約180年前までしかわからなかったルーツが何とさらに1000年も遡ってわかって大変うれしいと感謝されました。

4.海野小太郎と太郎山

ちなみに、海野氏は代々、当主は海野小太郎某某と名乗っていました。太郎山という上田市や東御市一帯を眺望できる市民に親しまれている山がありますが、この太郎山の名前も、海野小太郎からきています。太郎山は海野小太郎がこの山にたびたび神社を建立したことに由来します。白山比咩(しらやまひめ)神社は、聖武天皇の時代天平5年西暦733年に疫病を鎮めるために、海野小太郎が加賀の白山から白山比咩神を山頂に分座し、後に海野小太郎幸明が現在の地の山麓に移しました。
ご参照:note記事、https://note.com/ko52517/n/nc8ab8a319762の写真―22~23。現在山頂にある太郎山神社は、鎌倉時代の建久年間(1190~1199)海野小太郎幸氏(*)が、旱魃に際し雨乞いのため熊野社を勧請しました。このようなことからこの山を海野小太郎にちなんで太郎山というようになりました。
 また、海野氏から滋野氏や真田氏が派生し、滋野氏も真田氏もこの白鳥神社を氏神としています。戦国武将として全国的に有名な真田氏も、もとをたどれば1300年ほど前には百済の水軍だったというのは非常に興味深いです。

写真1 朝焼けの太郎山、赤太郎

5.平家物語の中に登場する海野氏

 その後、私は平家物語を全巻読破したところ、阿部先生の先祖の海野氏数名がこの物語の中で大活躍していることを知りました。特に海野大夫房覚明と海野小太郎幸氏(*)の二人が有名です。
 治承四年(1180)、後白河法皇の皇子の高倉宮(以仁王)が平清盛討伐のためクーデターを起こしました。平家討伐の令旨は全国に伝えられました。奈良の寺院にいた海野大夫房覚明はその返事を執筆し、「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたため清盛が激怒し捕縛命令が出されました。この平家の捕縛を逃れるため信濃国に逃げ帰り、今度は木曽義仲軍に祐筆として従軍しました。依田城(現在の上田市丸子町)にいた木曽義仲は、寿永元年(1182)九月、以仁王の令旨に呼応して、信濃国と上野国から駆け付けた三千騎を白鳥神社前の白鳥河原に集め、ここから北陸道を遡って京へ攻め上って行きました。この「白鳥河原の勢揃い」が源平の合戦の始まりです。平家物語によれば、横田河原(長野市篠ノ井横田)で、この僅か三千の兵でもって、平家方の城四郎長茂(越後国支配)率いる四万の兵を破りました。これを皮切りに破竹の勢いで京まで攻め上り、各地で連戦連勝でしたので、人々は朝日の登るようだと言って、木曽義仲を旭将軍と呼びました。木曽義仲は京で天下を一時的に支配しましたが、同族の源頼朝はこれを快く思わず、義経を派遣して木曽義仲を討伐しました。
 ご参照:note記事、https://note.com/ko52517/n/nc8ab8a319762。
木曽義仲が戦死した後、海野大夫房覚明は京から脱出するため、顔に漆を塗って顔を激しくかぶれさせ顔が分からないようにしました。それで逃げおおせて、箱根の山で僧侶として85歳まで生きました。文才豊な人であったといいます。平家全盛の時代に、清盛は平氏のカスと言い放ったのは、痛快です。
 お互いに平氏の後の覇権を握ろうとした源(木曽)義仲と源頼朝は、同族にもかかわらず犬猿の仲になっていました。そこで、融和策として義仲の長男義高(11歳)が、頼朝の長女(=大姫)の婿になるということで、寿永2年(1183年)に、依田城から鎌倉へ送られました。この時同い年の海野小太郎幸氏(*)らが義高と同行しました。義高は婿とはいえ実質的には頼朝の人質でした。父の義仲が粟津で戦死した後、頼朝から義高殺害命令が出され命が危なくなりました。それを察知した、頼朝の娘で義高の許婚の大姫が、義高をひそかに逃がしました。海野小太郎幸氏が義高に扮して残り、義高は女装して逃げました。しかし、入間で追手に追いつかれ殺害されました。わずか12才でした。大姫は、許婚の義高が父頼朝に殺害されたことを知り、その後欝状態になり心を病んで19才で亡くなったといいます。義高・大姫の悲恋物語は今も多くの人の涙を誘います。
ご参照:note記事、https://note.com/ko52517/n/nc8ab8a319762の写真―30~31。

6.曽我物語の中に登場する海野氏

その後、海野小太郎幸氏はどうなったのか、私は気になっていましたが、曽我物語を読んでいて、幸氏が再び登場するのを発見しました。曽我物語によると、その後幸氏は頼朝の家来となり、頼朝に仕えていたようです。
曽我兄弟の仇討は古来日本三大仇討の一つとして有名です。曽我兄弟は2人がまだ幼かった頃、父、河津祐泰と一緒に伊豆半島の伊東市付近に暮らしていました。この河津は、領地問題のこじれから安元2年(1176年)親戚の工藤祐経に暗殺されてしまいました。そのため、河津の妻は幼い二人の男の子を連れて曽我祐信と再婚しました。この二人の子供に、母は、大きくなったら必ず父の敵(かたき)を討てと言いながら二人を養育しました。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、建久4年(1193年)に、今の静岡県富士宮市一帯で大規模な巻狩りを行いました。当時の巻狩りというのは、一種の軍事演習で、野営地を築き、イノシシやシカ、タカを追い込み弓矢などで射るというものでした。野営地では、警護も厳しく正に戦を実施訓練するようなものです。曽我兄弟はこの野営地の大軍団の中に、頼朝のほかに、敵の工藤も野営していることを突き止めました。そして夜陰に乗じて忍び込み、遊女と寝ていた敵の工藤を見事討ち果たしました。しかし、騒ぎとなり、大軍団の武士が起きだし、曽我兄弟をとらえようと奮戦しました。この時、海野小太郎幸氏が曽我兄弟に斬りかかりましたが、逆襲に遭い怪我をしたと曽我物語では出てきます。その後、多勢に無勢で曽我兄弟の兄は切られて死に、弟は捕まって後に頼朝の命令で打ち首になりました。
 ご参照:note記事、https://note.com/ko52517/n/nd47974047284

7.晩年故郷の信州に帰った海野小太郎幸氏

さらにその後海野小太郎幸氏はどうなったのか、私は気になっていました。上田市丸子町三角(みすみ)地区に、愛宕神社というのがあります。ここを私が訪ねて由緒を読んでわかったのは、海野小太郎幸氏は、晩年は信濃国に戻り、依田城跡からほど近いここ三角の地で過ごしたということです。その館跡に地元の人々が、神社を建て「小太郎宮」と呼びましたが、明治の初めに愛宕神社と名前が変わったとのことです。
海野小太郎幸氏は、幼いころから波乱万丈の人生を送りましたが、晩年はこのように故郷に戻りました。そして義高の冥福を祈って過ごしたのではないかと思われます。

以上は、私が信州上田市周辺の神社仏閣を訪ね歩いて分かった「海野小太郎物語」です。皆さんのご参考になれば幸いです。

写真ー2 上田市丸子町三角地区の愛宕神社(旧「小太郎宮」=海野小太郎幸氏の館跡に住民が建てた神社。明治以降「愛宕神社」と改名)-1

写真ー3 上田市丸子町三角地区の愛宕神社(旧「小太郎宮」)-2

写真ー4 上田市丸子町三角地区の愛宕神社(旧「小太郎宮」)-3

*冒頭の写真は、太郎山の、有名な逆さ霧です。

(注1):http://rarememory.justhpbs.jp/takeda1/ta1.htmから引用:「舟山郷は、更級郡村上郷(現坂城町の上平(うわだいら)と網掛の間に字名を遺す)のあった更級郡南部から千曲川の川東を北に遡り、現更埴市屋代から現千曲市の戸倉の中間にあり、同じく現千曲市の小船山・寂蒔(じゃくまく)・鋳物師屋付近にあった。」

2012年8月30日随筆
2013年1月2日加筆
2021年7月16日加筆
信州上田之住人和親

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