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信州上田市丸子町東内「殉国英霊之碑」

(はじめに) 令和3年(2021年)9月の自民党総裁選で、「靖国神社参拝」を毅然とした態度で主張した高市早苗さんに大変感銘を受けました。ここに紹介しますのは、地方の市町村に存在する「ミニ靖国神社」の一例のお話です。山深い信州上田市丸子町東内(旧小県郡東内村)から、西南の役以来出兵して亡くなった英霊を祀った「殉国英霊之碑」を紹介します。

長野県上田市丸子町東内の丸子郷土博物館のすぐ近くに「殉国英霊之碑」という石碑が、あります。裏面の説明文が名文なので感激します。

(表)
殉国英霊之碑
   善光寺大僧正半田孝海敬書
(裏)
身を挺して国に殉ずるは憂国の士のみ之を能くす 顧みれば明治開国以来数多の憂患に罹り国運の危殆に瀕せし事屡々なりしも幸いにして克くこれを超服し和平の今日を招来せるは偏に我が憂国将士至誠奉公の致す所 国民の感激常に新なり 扨て茲に西南の役以来勇躍国難に赴きて還らざる本村出身の英霊を敬い功績を讚え碑を建てて永遠に遺徳を仰がんとす

昭和二十九年九月一日 建之  東内村

写真1:上田市丸子町東内の「殉国英霊之碑」表面

写真2:上田市丸子町東内の「殉国英霊之碑」裏面説明文

この大きな石碑の前に 東内村出身の殉国者氏名を刻した石碑が別にあります。それによると、出兵戦役(殉国者数)は、西南之役(一名)、日清戦役(四名)、日露戦役(二名)、西比利亜事變(一名)、満州事變(一名)、支那事變(二名)、大東亜戦争(七十四名)となっています。

写真3:上田市丸子町東内の「殉国英霊之碑」前戦没者氏名録

西南の役や西比利亜(シベリア)出兵にも、この信州の山深い小さな村から出ていって亡くなった人がいるのだと思い感無量でした。この場所は、この石碑の前に鳥居とか全く無いですが、上田城址公園の中にある上田招魂社(神社)と同じ役目を果たしていることがわかります。上田招魂社も西南之役以来の戦没者を祀(まつ)っています。ここは旧小県郡東内村の招魂社に当たるのでしょう。今年平成十八年(西暦2006年)の八月十五日に、小泉首相が総理大臣として二十三年ぶりだったかに靖国神社を公式参拝したので、大変話題になりました。靖国神社も全国の西南之役以来の戦没者を祀っています。各村にあるこのような招魂社や慰霊の場所は、地方のミニ靖国神社に当たるのでしょう。この東内村の「殉国英霊之碑」の前には、数本の卒塔婆と真新しいお線香が手向けてありました。このお盆に英霊の遺族の方々がお参りしたのでしょう。

なおこの碑は、当時善光寺大僧正の半田孝海師の筆によります。上田市民は、半田和尚と聞くと、大変尊敬しており、知らない人はいません。半田孝海大僧正は、仏教界の重鎮で、ウイッキペディアなどを参照すると、

明治19年(1886年)、茨城県水戸市生まれ。10歳で長野県上田市の常楽寺の養子となる。旧制京北中学、旧制第七高等学校、東京帝国大学文学部心理学科卒業。1917年常楽寺住職に就任し、上田自由大学を積極的に支援した。1920年上田蚕糸専門学校講師、1929年天台宗教学部長、同比叡山中学校長、学監などを経て、1950年天台宗大僧正となり、1959年善光寺大勧進副住職を務め、のち名誉貫主なる。比叡山樹王院住職も務めた。昭和49年(1974年)逝去。

また、長男、半田孝淳師(1917年~2015年)も天台宗の名僧侶で、常楽寺住職を経て、2007年より比叡山で第256世天台座主を務められました。


*冒頭の写真は、上田市丸子町東内の「殉国英霊之碑」の全景

信州上田之住人和親
2006年8月26日調査結果
2021年10月8日加筆

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