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アイヌ民族最初の国会議員、萱野茂さん

(1)萱野茂さんについて

だいぶ前になりますが、まだ社会党があった頃、参議院選挙で、私はそれまで支持政党でない社会党に一票を投じました。それは、社会党からアイヌ民族出身の萱野茂さんが立候補していて、比例代表制に支持政党を記入する投票方式であったからでした。しかし、萱野さんは、拘束名簿方式で順位が下位であったので、次点で落選してしまいました。私は、密かに現在在住の長野県から北海道の萱野さんを応援していたのに落選して、がっかりしてしまいました。しかし、それから暫くして、参議院議員の誰かが亡くなり、萱野さんが繰り上げ当選となりました。ついに、萱野さんはアイヌ民族最初の国会議員となられました。そして、在職中に、明治時代から法的に生きていた「北海道旧土人保護法」という屈辱的名前の法律の改正に尽力され、通称「アイヌ新法」と呼ばれる法律を1997年5月8日に成立させました。萱野さんが当選されなかったら、今もって、この差別的な名称を持った「北海道旧土人保護法」がそのまま生きていたかもしれません。中学の子供の教科書に、萱野さんが国会でアイヌ語で演説されている写真が載っているのを見て、私は、萱野さんに一票を投じた自分を誇らしくさえ思えました。
 私は、萱野さんには直接お会いしたことはありません。萱野さんのことを知ったのは、今から21年も前の、昭和55年(1980年)に、萱野さんが書かれた「アイヌの碑」という本を、そのころ住んでいた大阪府吹田市の本屋で、買って読んでからです。萱野さんの年齢はその時55歳で、アイヌ語が自由にしゃべれる人の中では一番若い方と思われました。萱野さんは大正15年(昭和元年)生まれです。この本によると、終戦間際の2年間ほど、萱野さんはアイヌ語だけで暮らしていたそうです。それは、戦争が激しくなって、燃料が日本全体で不足し、それまで営林署の仕事をしていた萱野さんは、その期間だけ燃料増産のため、お父さんと一緒に炭焼きをして山で生活していました。この時、長生きされていたテカッテおばあさんを含め、家族といっしょに生活を共にされ、アイヌ語だけでこの2年間は生活していたとのことです。この時、おばあさんから沢山のアイヌ語の物語を聞いたそうです。
 戦後になって、アイヌ語はもう、明治生まれの方しか理解できず、金成マツさんの残されたローマ字で書かれた大学ノート25冊に及ぶユーカラ(アイヌ英雄叙事詩)の翻訳は、金田一京助先生が数冊のみ翻訳されましたが、残りはもう無理ではないかと思われていました。それは、金田一先生も老齢となられ、また、わからない単語が出てきたときに聞いてもわかる人がいなくなってきたからです。昭和36年8月、翻訳のため、登別の観光アイヌをしていた古老に、わからないところを尋ねてこられた金田一さんは、そこでその古老と一緒に観光アイヌをしていた萱野さんに出会いました。若い萱野茂さんがこのユーカラのほとんど全てがわかることに、驚喜しました。ちなみに、今日(2001年8月5日)、NHKの教育テレビを見ていたら、萱野さんが出ていて、その後のことがわかりました。今は、この金成マツさんのノートは、金田一京助先生の息子さんの金田一春彦先生から、萱野茂さん以外に翻訳できる人はないとして、萱野茂アイヌ記念館に寄贈されており、現在22冊目まで萱野さんの手で翻訳されているそうです。全冊翻訳が完了すれば、直ちに日本政府は萱野さんに文化功労者賞を贈るべきです。金成マツさんのノートも萱野茂さんの翻訳も日本国の宝であると思います。
 私は、萱野さんの「アイヌの碑」を読んで、日本は早く、法律を改正して、国語は日本語だけでなくアイヌ語や琉球語も含めて、憲法で保障するべきだと、そのとき思いました。さもないと、貴重なアイヌ語も琉球語も地上から消えてしまうのではないか。フィリッピンは憲法で、英語とタガログ語を国語と定めて、学校で習うことを保障しています。義務教育が犯罪である言うと、穏当でないかもしれませんが、少数民族の言語を、小学校で教えてはならないとしているのは犯罪であると思います。百年以上アイヌの人々に対してこういう政策を押しつけた結果、ほとんどの人がアイヌ語をしゃべれなくなってしまいました。自分の文化や伝統・言語を奪う政策が犯罪でなくて何でしょうか?地名から考えて、大昔の日本の東半分はアイヌ語の圏内にあったことは明白です(ご参照:文末の追記2)。古い歴史を有する言葉がなくなるのは、日本の歴史の半分がなくなるのと同じです。英語を第2国語にするより先にやるべきではないかと思います。

(2)萱野茂さんのアイヌ語辞書

 萱野さんの本を読んだ同じ年の昭和55年5月25日、私は大阪の心斎橋筋を歩いていて、大丸・そごう前の小さな古本屋、中尾書店にふいに立ち寄り、珍しい本を見つけて購入しました。バチェラー著の「蝦和英三対辞書」という明治22年発行の本で、昭和50年に国書刊行会から復刻された本でした。そのころ、私は日本人のルーツや日本語の成立に非常に興味があり、この希少本に記載されているアイヌ語の文法や語彙に期待して購入したのでした。しかし、使い物にならない物でとてもがっかりさせられました。文法には、日本語やアイヌ語に全くない冠詞についての記述があったりして、西洋文法からの視点で書かれており、著者の能力を疑うものでした。したがって、この本でアイヌ語の文法がわかったり、この本の語彙でアイヌ語が読めるようになるとか期待できるものではなかったのです。まして、日本語との関連性や距離などが概観できるものではなかったのです。バチェラーは言語学者ではなく、北海道に渡ったキリスト教の宣教師であったので、仕方なかったのかもしれません。
 そこで、私は、萱野茂さんに著書「アイヌの碑」の感想とともに、バチェラーの辞書は使いものにならないが、かといって、アイヌ語を修得しようにもアイヌ語の辞書がないではないか、辞書を今あなたがつくらなければならないと言う趣旨を葉書に書いて送りました。かなり不躾で失礼だったかもしれませんが、私にはもう萱野さんしかそれをできる人はいないように思われたのです。
 最近、私が住んでいる長野県上田市の市立図書館で、最新のアイヌ語関係の本を調べてみました。そこで、萱野さんが4年前の1997年に、約6000語だったか、8000語だったかの語彙を収録したアイヌ語の辞書を出版されていることを知りました。21年前の私の思いは萱野さんに届いたのだと、人知れず図書館で一人感動しました。

(3)萱野さんのアイヌ語塾

 萱野さんは若い人がアイヌ語を修得し、アイヌ語・アイヌ文化を継承発展させるべきと考え、幼稚園をつくりそこでアイヌ語を教えることにしました。ところが、幼稚園で外国語を教えてはならないと厚生省だったか文部省だったかから通達があり、従わない場合は建設の補助金を出さないと言って来たのです。誠に嫌がらせです。そこで、幼稚園ではだめと言うことなら、私塾でとなり、30坪くらいのアイヌ語塾を併設してそこで教えることになりました。私も、外国語を幼稚園で教えてはいけない法律があるなど、この話で初めて知りました。しかし、英語を幼稚園で教えることなど都会ではいくらでもやっているのに、アイヌ語はだめなのか、そしてアイヌ語は日本国の中の固有の言語で外国語ではないのではないかなど、国の政策の根拠がどうなっているのか色々、疑問がいっぱいわいてきました。
 萱野さんのこのアイヌ語塾のことは話題になったので私も設立当時から知っていました。この萱野さんの試みが、多くの人を鼓舞し、各地でアイヌ語塾が開かれるようになっていきました。萱野さんがつくった辞書や、教科書がそこで採用されているとのことです。また、1997年3月からはアイヌ語の季刊新聞が発行されるようになり、1998年4月12日からは、北海道STVラジオでアイヌ語ラジオ講座も始まりました。今は他のラジオ局でもやるようになっています。最近は、インターネットでこれらのラジオ番組もダウンロードできるので、どこにいてもやる気さえあれば生のアイヌ語が聞けるようになりました。インターネットは少数民族の人たちにとって、福音になると思われます。北海道全土に2万4千人、東京周辺に3千人、関西や九州などにも相当数の方がいるとのことであり、これだけ広い地域になると、塾や教室に通うことは不可能でアイヌ語を独習する人の方が多くなります。そこで、放送大学のようなところで衛星放送してくれるとありがたいし、有料でいいので常時インターネットから教材がダウンロードできるようにしてほしいと、考える人も多いでしょう。北海道や東京から離れて私のように長野県などに住んでいると、アイヌ語の教材を手に入れるのは大変です。インターネットはまさにアイヌ語学習にとって革命的な手段となると思います。多くのアイヌ系の若人やアイヌ語を習いたい多くの人に学習の機会が提供できるので、是非、萱野さんに、次は萱野茂アイヌ民族記念館のホームページを開設するなどして、教材の情報をインターネット上に発信してほしいです。

(4)アイヌ語の教材を身近にする提案

 ここで、言語習得において大変興味深いことがあります。中国残留日本人孤児に、3姉妹がいて、終戦当時それぞれ年齢が、15歳、12歳、9歳でした。肉親と離れ離れとなり、3姉妹は別々の中国人の養父母に引き取られました。戦後40年して、日本に肉親探しにそろって来たとき、55歳の姉は日本語が不自由なくしゃべれ、52歳の姉は少ししゃべるのに不安でありましたが、何とか思い出し思い出し、意志を日本語で伝えることが出来ました。しかし、49歳の妹は、中国語でないと意志が伝えられませんでした。このことから考えると、日常生活に不自由なく言語を習得して長期間使わなくても生涯維持するには、少なくとも15歳まではかかるのではないかと思われます。一方、全く知らない言語を12〜15歳以上で習い始めて、他言語の中でいた場合は自分で不断に努力して10年、その言語の中に入った場合は2年くらいの習得期間がかかると、自分の経験から思います。私は日本にいて英語がしゃべれるようになるのに10年はかかりました。フランス語はパリで1年しか習わなかったので、もう1年つづけてパリに住んでいたら、完ぺきだったと思います。しかし、毎日使っていない言語は急速に忘れていきます。英語は毎日使っているので忘れませんが、フランス語はあんなに単語を覚えていたのにほとんど忘れてしまっています。でも、15年経った今でも、何とか、聞いたり読んだりすることが出来ます。ドイツ語は2年、中国語やハングルはそれぞれ数ヶ月独習しましたが、ほとんど何の努力もしていない今は完ぺきに忘れてしまいました。したがって、本や、ラジオ、テレビ、インターネットを通じて、ふんだんに教材が、身近にすぐ触れられるように、アイヌ語をして欲しいと思います。さもないと、習得言語は、あやしくなっていくものです。特に、遠くにいる人はそうです。

最後に、私は、萱野ニシパ(=さん)が今後も健康に注意され息長く、アイヌ語(=アイヌイタック)やアイヌ文化(=アイヌプリ)において、後進の指導をされることを、陰ながら祈ってやみません。

(追記1)萱野茂さんの訃報

 本日、2006年5月9日、萱野茂さんの訃報に接しました。79歳でした。まだまだ後進のご指導をいただけるものと思っていましたのに大変残念です。御冥福をお祈り致します。

(追記2)アイヌ語のルーツ

多くの日本人が誤解していますが、アイヌ語の起源は北海道ではありません。能登半島のノト、利根川のトネ、富士山の古名ふちの山のフチ、などはみんなアイヌ語です。信州にもアサマなどアイヌ語の起源の地名が残っています。上野国(上毛)や下野国(下毛)は大和朝廷に帰属した毛人(えみし)の国でした。えみしは蝦夷とも書くので、蝦夷=アイヌ人と考えられます。群馬県や栃木県はアイヌ人の住んでいたところなのです。なので、東日本にはアイヌ語起源の地名が今もたくさん残っています。また、このような地名だけではなく、言語学の最新研究からも、東日本はかつてアイヌ語の世界だったことが強く示唆されています。つぎのYouTube, 「【日本語の起源】東アジアの言語史まとめ【仮説】」https://www.youtube.com/watch?v=EwLrtntJfCc が非常に注目されます。一度ご覧いただければ感銘を受けることと思います。

以上のように地名や言語学の研究から、アイヌ語はもともと本州の東半分で話されていた言語であることがわかります。北海道では紀元3世紀まではアイヌ語は全く話されておらず、ギリヤーク語などの古代シベリア語族の言葉が話されていました。北海道は、樺太や、沿海州と同じ古代シベリア語族の世界だったのです。5世紀辺りから日本語に押されて、アイヌ語は北上して北海道に入り、そして樺太や千島列島にまで広がっていきました。それで、サロマ湖で発見された遺跡は、アイヌ人のものではなくギリヤーク人などの古代シベリア語族の人々のもの特徴を示すものだったのです。したがって、最後まで北海道のオホーツク沿岸のサロマ湖辺りにいたギリヤーク人らは、アイヌ人に押し出されて、北樺太や沿海州の方に北上していったというわけです。アイヌの英雄叙事詩ユーカラに出てくる英雄ポイヤウンペが戦う異民族レプンクル(沖の人)は、このころの古い民族の攻防の歴史を物語っていると考えられます。したがって、間違ってはいけないのは、アイヌ語は樺太から北海道に南下してやってきたのではなく、全く逆に、本州から北海道へ、次に樺太や千島列島に北上していったのです。多くの日本人に、アイヌ語は、かつて中部地方から東の日本列島に住んでいた人々の言葉だったという正しい認識を持ってもらいたいです。以上のように、アイヌ人は我々日本人の半分のご先祖なのです。

*冒頭の写真「萱野茂 ニ風谷アイヌ資料館」は、「北海道沙流郡平取町のホームページ」http://www.town.biratori.hokkaido.jp/kankou/bunka/bunka6/
から引用させていただきました。

信州上田之住人和親    
2001年8月5-7日 随筆
2006年5月9日 追記1
2021年10月22日 追記2

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