人生のエピローグ
今年の1月下旬、母が倒れた。
以前、一緒に住んでいる姉から「お母さん、ちょっと認知症みたい」と相談があり、気にかけていた矢先の出来事だった。
仕事で商談に入る寸前に姉から電話があり「お母さんが倒れた。もしかしたら危ないかもしれない」と言われ、商談を直ぐに切り上げ、病院に駆けつけた。
ICUに運ばれて、危篤状態。医師からは「この3日間が山場です。乗り越えられたとしても回復の見込みはない為、ご家族の方々はそれなりの覚悟を持って下さい」と言われた。
間質性肺炎。左右の肺半分以上が侵されていた。
8年前、会社の健康診断で軽度の肺炎になっていたそうだ。たまたま運ばれた病院で検査を受けていた為、昔のカルテが残っていた。それを放置し、徐々に悪化した可能性が大きかった。
父も姉も弟も、そして俺も、家族みんながその事実を知らなかった。
昔からそうだ。周りに心配かけまいと自分の事は二の次で「無理はするなよ」と言っても「大丈夫、大丈夫」と気丈に振る舞っていた。
母は仕事が好きだった。母にしか出来ない専門的な業務につき周りからも慕われていてた。会社が事業縮小になりリストラが起きた時、社長直々に「あなたは残って欲しい」と言われたほど。そのことを母は口にしなかったが、父が自慢げに話してくれたのを覚えており、ウチの母は凄いんだなと誇らしかった。
様子がおかしくなってきたのは5年前に会社を定年退職し、嘱託も終わった頃。好きだった仕事がなくなり、家に引きこもる様になっていった。
いわゆる、燃え尽き症候群だったと思う。
実家には姉夫婦と一緒に母は住んでいた。父は運送業で社宅に住んだ方が仕事が貰え稼げると実家には住んでいない。姉が母の面倒を見ていてくれたが、子供4人面倒見ながら母もとなると、ちょっとの事で衝突しがちになっていた。
俺が「うちに来ないか?のんびり過ごせるし、周りには公園もいっぱいあるから散歩でもしてゆっくり過ごそうよ」と誘ってみたものの「実家を離れるのは嫌。ここは私が頑張った証だから」と断られた。
父親も姉も俺も良かれと思ってした事が、今思うと母親はお荷物扱いされてると感じたのかな…この一件があってから次第に言葉数も減り、変な気遣いをしていた。
我慢…我慢…我慢…
真面目な母は息抜きが出来ず、きっと苦しかったに違いない。気分転換にご飯へ行こう、温泉に行こう、何か楽しくなる事をすれば、ちょっとはマシになるのではと誘ってみては「ううん、ありがとう。気持ちだけで充分」と、何も出来ない自分に力不足を感じるようになった。
今年の正月に帰省した時、母親は笑顔を見せなかった。
明るくいつも笑っていた母親はもういない。
病室で横たわり人工呼吸器がないと生きていけない、骨と皮だけの違う人の様にさえ思える母親。
きっとよくある話の1つなんだと思う。
ただ、まともな親孝行もしてあげられず、苦しかった状況を打破する事も出来ず、もっとかまってあげられたら、もっと一緒に過ごせたら、何か出来た事はあったんじゃないか?と今は悔いが残っている。
罪滅ぼしじゃないけど、行ける時にはお見舞いに行き、仕事の自慢話や子供達の成長写真見せたり、母との思い出話をしている。あまり長いと聞いてるだけでも疲れてしまうだろうから、ほどほどにね。
息子の俺は、母さんが頑張って働き、育ててくれたおかげでまともな生活が送れているよ。ありがとう。そう想いながら話してる。
肺炎だけでなく、他のところにも病気が見つかってきた。もう、そう長くはないだろう。
覚悟をしてもしても固まったかどうかは分からないが、気持ちの整理は出来た。
母の人生はどうだったのかな?やっぱり苦しかった事が多かったかな?楽しかった事聞いておけば良かったな。
残された時間、何とか楽に過ごして欲しい。
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