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【劇場版からかい上手の高木さん】「おーい」のシーンの意味を考察

はじめに

2022年6月10日から始まった『劇場版からかい上手の高木さん』。本稿の投稿時にはもう6週目中盤です。

毎回観るたびに新しい発見があり、構成の巧妙さや作品の背後にある深いテーマ性には驚くばかりです。

さて、本稿では最初に劇場版を鑑賞したときからかねてより語りたいと思っていた3人娘(サナエ、ミナ、ユカリ)の感動的なシーン、「おーい」のシーンについて書いていきたいと思います。おそらく最初に劇場版を観たときに誰もが初めにうるっときてしまうのがこのシーンだと思います。

あくまで本作品は高木さんと西片くんが主役のはず。にもかかわらず、多くの観客の涙を誘い、作中屈指の名シーンとなった「おーい」。何がそんなにも観る人の心を動かしたのかについて、物語上の特徴表現上の特徴に着目して言語化していきます。


友情、成長、進路という普遍的テーマ

仲良し3人組に訪れる変化

原作、アニメを見ていればわかると思いますが、3人娘はいつも一緒にいる大の仲良しグループです。ずっと一緒にいた仲間との別れ、というだけでも感動要素は十分なのですが、こうして私がわざわざ長文レポートのように書いてるからには、それだけではないということです。

注目したいのはミナ。3人娘の中で一番見た目や言動が幼い女の子です。アニメでもサナエやユカリはミナの保護者のような立場で接しています。

呆れられてるミナちゃん

ことの発端は、走るのが好きなサナエちゃんが中学卒業後に島を出て陸上の強い都会の学校に進学するかもしれないということを耳にしたミナが、「終わり」と「別れ」を意識し始めたところから。

「今までずっと一緒があたりまえだった友人が遠くへ行ってしまうかもしれない」という別れに対する悲しみと、「今までの関係がなくなってしまうかもしれない」という変化に対する漠然とした不安を抱えきれず、ミナはユカリに相談を持ち掛けます。ここでポイントなのが、サナエには相談していない点です。ミナの個人的な気持ちのためにサナエを心配させたくないサナエの将来の選択の邪魔はしたくない、というミナの配慮がここに表れているのです。幼く見えるけどちゃんと友達のことを一番に考えていて、わがまま言うのも我慢できるんだ、そんな少し背伸びした姿が健気なんですよね。

相談を持ち掛けられたユカリは、サナエが都会の高校に行ってしまうかもしれないことを聞いて少なからず動揺したようでしたが、やはりミナより少し大人。50年後も今と同じだったら逆にやばい、と「遅かれ早かれ変わっちゃう」ものだと、今の自分たちを俯瞰的にとらえていました。

夏休みにやりたいこと100

ニコニコ元気が取り柄のミナちゃん、いつまでもくよくよはしていません。卒業後の変化を受け入れることを心に決めたミナは、その日が訪れるまでに後悔が残らぬよう、次の行動に移ります。それが「夏休みに3人でやりたいこと100」。100という数字やユカリにいきなりやりたいことを聞く無茶ぶりっぷりはミナの子どもらしさ全開なのですが、友との別れを前向きな気持ちで迎えたいというミナの心の奥が垣間見えるような企画を立てたのでした。たぶんこの時点では100個もやりたいことを用意したらずっと一緒にいられるはずだという根拠のない自信が、明るくふるまう勇気を支えていたのでしょう。「中学最後の夏」という言葉に寂しいトーンは感じられません。

3人の原動力はミナ!

いきなり「やりたいこと100個提案して」と言われても案外出てこないのがふつう。ユカリは最初戸惑いますが、サナエは「スイカの種、飛ばしたい」「アイスのあたり棒を見つけたい」などと、考えてるんだか考えてないんだか何とも言えない目標をぽんぽん出していくいつものペース。劇場版だからと言って奇を衒った演出はせず、あくまで日常の時間を切り取った演出であるところがファンの心をつかんだといえるでしょう。(余談です笑)

やりたいこと100のもう一つの側面

友達との別れを前向きな気持ちで迎えるためにミナが考えた「夏休みにやりたいこと100」。実に明るい企画で、ミナのポジティブな性格をそのまま形にしたようなアイデアでした。

まさかこれが最後に彼女たちを苦しめることになろうとは誰も疑いもせず…

夏休みに3人でやりたいことを100個書き出して実行すること。それには確実にゴールが、すなわち終わりがあります。ミナたちがやっていたことは終わりの「見える化」。私たちが普段行っているタスク管理と同じこと。したがって、「やりたいこと」をこなすごとに「終わり」が近づいてくるという、ミナにとっては実に残酷な企画だったわけです。
100は大きな数字であるけど決して無限大ではないことを否が応でも実感することになるのです。それに気づいた瞬間、ミナはとてつもない胸の苦しみを感じたことでしょう。自分から始めたことが、自分で終わりを決めてしまうことであったのですから。

ミナがそれに気づいたのは、残りの「やりたいこと」がもう数えるほどになったころ。ユカリが残りの「やりたいこと」をミナに尋ねたとき、全部やったら夏が終わっちゃう気がするから「もういいかな」と途中で逃げ出そうとします。

ここの「もういいかな」には、ミナの成長に対する拒絶無情にも止まらぬ時間への抵抗が如実に表れています。「終わらないでほしい」というこの気持ち、誰もが一度は経験したことあるはず。すごく共感できてしまうんですよね。

このセリフにはほかにも、ミナが2人を巻き込んで始めたことに、ここまで付き合ってもらったという負い目と、その終わりが決して明るい気持ちで迎えられそうなものでないことについての申し訳なさがあったりなかったり。たぶんミナはそのあたり無頓着ではないので少なからず、そういう理由も頭に浮かんでいたと思います。

フェリーとサナエの「おーい」の核心

サナエの決心

決めたことは最後までやり遂げよう

将来と向き合うこと、前に進むことの不安から逃げ出そうとしたミナを止めたのは幼馴染のサナエでした。

サナエは公式サイトのキャラクター紹介文に「クールなツッコミ役」とあるように、さっぱりとした性格で、感情を表に出さないタイプの女の子です。ミナの企画した「夏休みに3人でやりたいこと」においても、いろいろ提案してはいましたが、とりわけそれに対する熱意があるようには見せず、淡々とミナに付き合っている印象でした。そんなサナエが、これだけは途中で投げ出しちゃいけないと、ミナを諭したのはやはり印象深いです。

あまり物事にこだわりがなさそうなサナエですが、こと「走ること」に対しては強い信念をもっているように、サナエは芯のしっかりした子であるといえます。

ただ、だからサナエは決めたことを断念しようとしたミナに最後までやり遂げるよう諭したのだ、という単純な論理ではこのシーンは説明しきれません。

サナエは自分自身のためにもミナが考えてくれた企画をやり遂げたいと思っていた、と考えるのが妥当です。なぜなら、この時点でサナエはまだ本格的に陸上を始めるために都会の高校へ行くという選択肢が残っているからです。すなわち、この島と、この島の友達と、離れ離れになることがまだ現実味を帯びた将来としてサナエの脳裏をよぎるからです。

自分のために都会の高校を選ぶことは、プールの時間に「3人ずっと一緒だね」と手を取ってくれたミナとユカリに別れを告げること。サナエだって何事もなく夏が終わってしまうのはやはり寂しい。だからこそ中学最後の夏に3人で大きな思い出を作ってしっかりけじめをつけよう。そう考えていたことでしょう。

やると言い出した責任がある。サナエの言っていることもわかる。でもやっぱり終わるのは寂しい。ずっと続いてほしい。

ミナが心を決めきれないところへフェリーが通りかかります。

フェリーの意味

本作ではアバン、「おーい」、夕方の3つのシーンでフェリーの描写がありますが、このフェリーが作中で持つ意味とは何でしょうか。

これまで日本や世界で作られてきた作品の描写を読み解くと、あるモチーフが何らかの歴史的、世界的に共通なメタファー(比喩)であるということがあります。

有名なものでは、
・橋=あの世とこの世をつなぐメタファー
・蝶=死や魂のメタファー
・水=生命や蘇生のメタファー
というように、作品を作る人はある抽象的な事柄を実体のある何かに託して表現します。

このようなことを知ったうえで「おーい」のシーンを見ると、フェリーが何かしらの比喩であるということが予測できると思います。

フェリーの解釈については、一つに確定できるものではないと思うので、ここからはあくまで筆者個人の考察になりますが、私はこのフェリーが「出会いと別れ」のメタファーであると考えています。

その理由としては、
1,船は陸上交通が発達する以前から人間や貨物を運ぶモチーフで
  ありつづけたこと(例:ノアの箱舟)
2,出航のシーンはこれまで様々な作品の中でも重要な別れのシーン
  として描かれてきたこと
が挙げられます。

ここまで説明すると、なぜサナエが先陣を切って船に向かって「おーい」と返したのか、なぜユカリは歯を食いしばって「おーい」と続いたのか、その答えが浮き上がってきます。

「おーい」の意味

「おーい」のシーンに至るまでに3人がそれぞれ心に抱いている葛藤を整理しておきましょう。
ミナ :3人ずっと一緒にいたい
    ⇔友達の将来を思いやりたい
サナエ:陸上のために都会の高校を目指したい
    ⇔自分を思いやってくれる友達と3人で同じ高校に通いたい
ユカリ:ミナの気持ちもわかる
    ⇔サナエの気持ちも尊重したい

中学最後の夏の終わりを意識してしんみりしてしまった3人娘。その寂しいムードをイケボの「おーい」で勇気づけたのはサナエでした。いつもの3人組で、サナエが主体となることはほとんどありません。クールなサナエちゃんですから、「私も寂しい」とか「離れ離れでも大丈夫だよ」なんてことは言いません。ただ力強く「おーい」と手を振ることで心の迷いを吹き飛ばしたいたとえ離れ離れになる時がきても、その時は泣かないで、こんな風に見送ってほしい。複雑な感情を押し隠したサナエの行動でしたが、ユカリはしっかりサナエの気持ちを察知します。そしてサナエの心の声に呼応するように「おーい」と涙をこらえて手を振ります。たぶんここのユカリちゃんはサナエが2人を勇気づけようと自分から行動したことと、もうほんとにお別れしてる気になっちゃってることが重なって今にも泣きそうな表情なんだと推察します。そして最後、サナエとユカリはお別れに対する心の準備ができた、このままめそめそしてても一人置いてきぼりになってしまうミナも、強い心で未来に進むことを受け入れることを決意します。

そして3人で「おーい!」…。

ミナたち3人がまた一歩大人に近づいた瞬間なのでした。

サナエは芯がありつつも飄々としているので、ミナは(観客も)陸上を選ぶんじゃないか、3人が高校が別々になることくらいあまり寂しくないんじゃないか、と思ってしまう。けど最後にサナエちゃんは2人の手をしっかりと握りしめます。「私もこの3人が好きだよ」「離れ離れでも私たちは大丈夫だよ」と、言葉こそありませんが、ちゃんとプールでのミナに対する返事をしました。

3人の絆に言葉はいらない

「出会いと別れ」のモチーフであるフェリーの見送りは、3人の別れの疑似体験であるといえます。最後まで観れば明らかなように、結局3人はお別れにはならないのですが、この疑似的な別れの体験を経て、3人はより強い絆で結ばれることになります。

これからも3人はずっと一緒

まとめ

劇場版における3人娘のエピソードは、『劇場版からかい上手の高木さん』のもう一つの軸となる超絶大事なストーリーです。友情成長進路という普遍的なテーマを根底に据え、3人のこれまでとこれからの関係性を大切に描き上げたもう一つの名作と言っても過言ではありません。「おーい」のシーンは「出会い別れ」を船に託し、映画における3人娘のエピソードのクライマックスとして観客の涙を誘ったのでした。


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