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【劇場版からかい上手の高木さん】感動のクライマックスを分析

はじめに

2022年6月10日から公開された『劇場版からかい上手の高木さん』
「〇〇さん系」漫画の先駆けと、自らそう称する日常系ラブコメが、その夏満を持しての映画化を果たしました。3期にわたるTVアニメ化によりそのファンを着実に増やしてはいたものの、「あの高木さんが映画化?」と、多少の不安を抱いた人もいるはず。しかし、いざふたを開けてみれば「劇場版」の名に恥じぬ最高傑作。高木さんの世界観を大切にしつつ、映画としてのクオリティも非常に高く、見事にファンの期待を超えてくれました。

さて、今回はそんな「期待以上」の名シーンとして呼び声の高い映画のクライマックスの場面を分析していきます。嬉しい意味で衝撃的な本作のクライマックスは感動必至。感動のラストを描写と物語の両面から考察します。

クライマックスに至る経緯

1学期の終業式の日、神社で一匹の子猫を拾った西片と高木さんは、夏休みの間その子猫の里親を探すことにします。ハナと名付けたその子猫は、まだ生後1か月ほどの真っ白な女の子の猫でした。2人は毎日神社に通ってハナのお世話を続けますが、里親は一向に見つかりません。長いことハナと一緒にいたので、3人(2人と1匹)はもう家族同然の関係。そんなある日、高木さんの家でハナを飼ってもいいことが決まり、神社にハナを迎えに行きます。しかし、いつもいるはずの場所にハナはいません。道路を見ると、小さな兄妹がハナを抱えていました。とても幸せそうにしている小さな子どもとハナを見て、ハナを返してもらうのを断念します。2人はやるせない気持ちで帰路を歩くのでした。

感動のクライマックスを構成する描写

夕日と影

神社の階段のカットから次のカットへは少しだけ時間がジャンプします。2人は海岸線の見える歩道を下を向いて歩いていて、2人の気持ちとは対照的なほど美しい夕焼け空。スクリーンの手前に落ちる2人の影が強調されています。

ひぐらし

里親が見つかったのに、何か心にひっかかるものが残る2人は無言のまま海岸線の見える歩道を歩き続けます。ここのカットが本作一番の長回しであるため、観客もこの空気の重苦しさを嫌が応でも体感することとなり、かなりつらい時間。また、このシーン、聞こえてくるのは切なげなBGMに重なる2人の足音ひぐらしの鳴き声。ひぐらしは漢字で「日暮」と書くように夕方に鳴く蝉です。また、8月の終わり以降も鳴き続けることや、俳句においてもひぐらしは秋の季語であることから、夏の終わりを告げる演出効果として日本の作品ではしばしば用いられます。

夕焼け小焼けはお家に帰る時間。この場面では2人の夏の楽しいひと時の終わりをひぐらしが告げるているような印象を受けます。

ウミネコ

ほんのわずかな時間ですが、シーンの切り替えとして挿入されるウミネコのカットがあります。筆者はこのうみねこのカットを挿入したのが「粋だな」と思いました。というのは、

子猫のハナ=青の盛り
ウミネコの終わり

という、見事なアナロジーがこの演出の裏には隠されている!ということを勝手に想像してしまったからです…。筆者の妄想はさておき、シーンの橋渡しを、子ネコとウミネコに託す演出には脱帽です。

フェリー

船が「出会いと別れ」のメタファーだと考えられる、ということは別の記事で書かせていただきました。夕焼けの海岸線へのシーンに移るときに、ここでもフェリーが通りがかります。夕日に照らされながらスクリーンの奥のほうをフェリーが通るのですが、これはおそらくハナとのお別れを暗示しているのでしょう。

メタ的な考察を加えると、ここでのフェリーは西片と高木さんのひと夏の物語はここでいったん幕を閉じるよ、ということを観客に伝えているともとらえることもできます。


西片と高木さんの青春の締めくくり

悲しい出来事があった。
本当は喜ぶべきなのに、
なぜか心から笑えない。
好きな人の前で一度は隠したその気持ちが、
今度は抑えきれない涙としてこみあげてくる。
私の前の彼の背中に
この気持ちを受け止めてほしい。

高木さんが作品を通して初めて見せた悲し涙でした。

大切な人を泣かせてしまった。
自分を好きと言ってくれる女の子を。
彼女の涙は見たくなかった。
彼女は強い子なんだと勝手に思い込んでいた。
でも違った。
華奢で、か弱くて、愛おしい。
そんな、どこにでもいる一人のふつうの女の子。
俺がそばにいてあげないと。
いや、俺が彼女のそばにいたい。
ずっと。ずっと。

※これらは完全に筆者の妄想です

西片は一度、子どもたちからハナを返してもらえるよう駆け寄ろうとしました。でもそれは高木さんに止められました。彼女が無理に作った笑顔に気づいてはいたけれど、高木さんが大丈夫というならその気持ちを尊重する。

今まで見せたことのない高木さんの表情に、西片は掛ける言葉が見当たりません。神社から里親募集のちらしを張った掲示板まで、2人がずっと無言だったと考えると、次に声を発することの重みは相当なものだったでしょう。

ハナのちらしを回収する姿は、町中にあった2人の幸せな思い出を一つ一つ自ら消して回っているようで、観てるこっちは本当に居たたまれない気持ちになります。

結果的に、この重い沈黙を破ったのは高木さんでした。最後のちらしを剥がし終わったのを引き金に、今までこらえていた高木さんの気持ちは限界を迎えます。西片が歯を食いしばって振り向くと、大切な人の顔にはキラリと光るものが。

あの子、幸せそうだったよね?

自分はものすごく悲しいのに、ハナの幸せを願って嬉しい気持ちになろうとする高木さん。でも一度涙腺を破壊した涙は止まってはくれません。西片の目の前で全感情をさらけ出してしまった高木さんですが、それでも強くあろうとしてハナのプレゼントであった首輪を握りしめます。

不謹慎を覚悟で述べると、夕日に照らされて輝く高木さんの涙がただただ美しい1シーンです。いつもはきれいにまとまっている髪も、ここでは少し湿ってほどけた感じ。大人の色気を感じさせます。

高木さんだって幸せだよ

もう我慢しなくていいんだよ。俺の前では泣いたっていいんだよ。自分も泣いてしまいそうなのをぐっとこらえ、そう語りかけるように、西片はやさしく、そしてしっかりと高木さんの両手を取ります。

高木さんは幸せになる

高木さんを幸せにする

中学に入学したあの日から、自分のことをからかってくる隣の席の女の子。高木さんという彼女はなぜかいつも俺の近くにいて、それがいつの間にか当たり前になっていた。「付き合ってるんだろ?」「告白しろ」友達からそんなことを言われるたびに否定してきたけれど、俺は高木さんのことが好きなのかな。俺はただ…。

自分の気持ちに答えを出せずにいた西片が最後の一歩を踏み出す大きなきっかけとなったのは、高木さんの涙でした。

さっきまで2人の気持ちに影を落とす存在だった夕日は、今や西片の覚悟の気持ちを応援するかのように真っ赤に燃えています。顔が赤いことを照れ隠しするために「夕日のせいだって」と言っていた西片が、今度は夕日を味方につけています。

中学生の男子がとても言えるはずのない、見てるこっちが恥ずかしくなるようなプロポーズを、誰も茶化すことのできないほどかっこよく言い切った西片。すべてが報われたような気がして、見守ってきた私たちの涙腺もここまでくるとさすがに崩壊です。

高木さんは自分が泣いているところに大好きな人からの愛の誓いを受けてしまい、感情はぐっちゃぐちゃだったと思います。もうその場はその言葉をただただ受け入れるうなずきを返しました。これまた不謹慎ですが、2年半におよぶからかい勝負は西片の逆転大勝利でしたね。

カタルシス

もうかなり陳腐な言葉にはなってしまいましたが、最後に「カタルシス」のお話を。ちょっとメタいので、この感動を冷めさせないでほしいという方はここまでお付き合いいただきありがとうございました。

映画作品を語るうえで切っても切り離せない概念がカタルシスというものです。カタルシスとは、ギリシア語で

哲学および心理学において精神の「浄化」を意味する。アリストテレスが著書『詩学』中の悲劇論に、「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」として書き著して以降使われるようになったが、アリストテレス自身は演劇学用語として使った。

Wikipedia「カタルシス」の頁より(2022年7月20日閲覧)

とあるように、悲劇的な物語を観ることで精神の浄化が起こることです。映画公開中、高木さんの映画公開中、「映画を観て心が浄化された」「心の洗濯に行ってきます」といった内容のツイートを何度か見かけましたが、その正体は古代ギリシア時代から発見されている「カタルシス」という人間の感情(?)なのです。

高木さんのクライマックスはまさに悲劇を幸福に昇華することで精神の浄化作用が働きます。ではこのカタルシスのトリガーとなるのは何かというと、これまた高木さんの涙です。ハナのお世話に真摯に向き合い家族愛にも負けずとも劣らない愛を育んでいった西片と高木さんに完全に感情移入している観客にとって、ハナを連れて帰った兄妹は悪役以外の何者でもありません。でもさすがに西片と高木さんの気持ちもわかるので、その不満は心の奥底にしまっておきます。一方の西片は、「中学最後の夏」という言葉を聞いた時から悶々とした感情をどこかに抱いており、そこへ今回のハナの件が重なって心のモヤモヤはピークに達しています。

そんな私たち観客と、西片のモヤモヤを、代わりに爆発させてくれたのが高木さんの涙だったわけです。高木さんが泣いたことで、西片は思い悩んでいたことがすべて洗い流され、プロポーズの一歩を踏み出します。こうして2人の恋が成就するすることで我々の不満はすべて浄化され、最後には「いいお話だった」「感動した」と、カタルシスを味わっているわけです。

おわりに

いかがだったでしょうか。分析というより筆者が好きなことをべらべらと書いただけの文章になってしまいましたが、本稿が皆さんのより深い考察の一助となれば幸いです。

ちなみに、くどいようですが、筆者はこのシーンの高木さんの泣き顔がすごく好きです。


参考ツイート


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