英語でミュージカルしてみたよって話

10月29日。
私は、学校のサークルで英語ミュージカルを演じた。

そこで得た感情はきっと私の糧になるピン留めしとかないといけないことだから綴っておきます。

まず、私がなぜこのサークルに入ったのか。

①高校演劇以来の演技やミュージカルの世界をもう一度味わいたかったから。
②英語を話す習慣を無理矢理でもつけたかったから。
③公教育に教科教育以外の教育を届けたいという夢を野望を形にするにはミュージカル教育の手法を味わい、学びたかったから。

こんな理由で入りました。

それから、1度英語劇に出た。
セリフほとんどない劇だったけど、だからこそ日本の高校でやった演劇の要素で演じてた。でも、終わった後たしかに私は英語の劇に出たんだって思って、私にとってチャレンジゾーンに入れたと思った。

私はきっとミュージカルを演じるのが好きだ。観賞するよりも、演じることや一緒に作り上げる裏方の方が大の好き。どんな形でも舞台に関わっていたい。

なんでかっていうとダンス、歌、アート、演技が合わさった総合芸術だから。ミュージカルの可能性を感じるから。

今回のミュージカルで気づいたことが何個かある。

1つ目は、Footlooseの内容から
人にはそれぞれ正義があり、それは周りから見れば時には悪に見えること。
周りが見えなければ、それが当たり前になってしまい、違和感がなくなってしまうこと。
何かをさせないという抑圧は反発を被るだけだということ。
大人はやはり子どもの気持ちを忘れてしまうということ。そして、私は大人に着実になっており、気付かぬうちに子どものときになりたくなかった大人の選択を行動をしていること。
相手に自分の弱みを悩みを打ち明けることがその人の心の鍵をあけることにつながるかもしれないということ。
人は結局、心の中で孤独で特に中心や前に出る人は孤独であるが、周りに目を向けて見れば、案外みんな同じ孤独を味わっている仲間であるということ。
ダンスは自分の気持ちを表す表現する一つの手段だということ、それはどんな人もやってみれば、経験がない人だって、ひとつの手段ではないのかということ。

二つ目は、ミュージカルに出てみて
プリンシパルという役を演じたことにより、真反対の役を演じることが真反対の人を受け入れることにつながるのではないかと考えた。
どんな悪者を演じたとしてもどこかにリスペクトする点を持てるのではないのかと思う。
そして、物語上悪者であればあるほど、人間味がある気がしてて、表に出ない演じる深みとかがあって、これを時間をかけてやればやるほど、相手の気持ちを考えることにつながると思った。
ミュージカルは見せる人がいて成り立つものだと思う。見せる人がいてやっと完成する。そんな綺麗事に聞こえるかもしれないけど、それを本当に気づいた。本番気持ちよかった。拍手と歓声と指笛…。海外のお客さんもいて、海外のお客さんも日本人のお客さんも両方が楽しんでいた。価値観がつながっていた。同じものを楽しんでいた。その空間でひとつのものをつくっている感覚がたしかにあった。

3つ目は英語という言語を使ったことから
私は日本語でやる舞台や演技やミュージカルが好きだった。なんでかって言ったら、間があるから。声をはっきり届けて言葉として届ける。日本でやるならその方がいいと思ってた。届けたいならそれが正攻法だと思ってた。だって英語をもし英語のわからない日本人に届けたら、正直ちゃんと声が大きくなくても雰囲気だけ伝わればとか思っていた部分が最初少なくともあった。でも、英語の可能性を知った。英語でやることは、ブロードウェイとかのレベルじゃなきゃ、理解もしづらいし、する側のメリットや成長しかないんじゃないかって思ってたけど、違った。英語のミュージカルを日本でやることは、英語という言語の壁を越えられて、その素晴らしさを伝えること。可能性を伝えること。なんかよくわかんないけど、楽しそうがもしかしたら国際理解につながるかもしれない。誰かの一歩に繋がるかもしれない。英語がよくわからない人がその舞台を演じる人までの深い理解には至らないかもしれないけど、それでもその人なりの発見がある。わからないからこそ、そこで終わらない学びやもやもややそこからの成長を与えられるのだと思った。日本語よりも幅広い可能性があると感じた。


演じ方は、日本語でやるときも英語でやるときも、別に変わらなかった。過去やったミュージカルや演劇と同じように役を分析して、言葉を分析して話さないときの動きを意識して、違和感なくやる。そうだ変わらない。そう感じたとき、すごく心が軽くなった。大丈夫。できるよ。
そして、これから英語のミュージカルを挑戦する人に伝えたい。届けたい。大丈夫。やりたいという思いさえあれば、誰かがもがくあなたを助けてくれる。大事なのは精一杯もがくこと。

何をこんなにつらつらと書いてるんだろうと思う。でも、私は書くことで整理するから。ここで宣言したい。

やっぱり私は公教育に届けたい。日本の普通の子どもたちに演じる楽しさを、深さを学びを届けたい。習い事という方法ではない方法で。日常が5教科だとしたらそこに非日常を公教育に、自然やミュージカルや地域や自分を知ること。どれも絶対大切だから。


今週は、なぜか5人のそれぞれの悩みを聞いてしまった。それで私の心が意外とやられていた。

そんなつもりなかったのに。まだやれるかな。
いや、やるしかないんだよ。

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