逆光

『逆光』 作詞・野澤收-福井慶治 作曲・藤澤昌規-石井健二


拝啓 平岡公威様




日本は今、こんな有様です。といってもあなたは先刻ご承知で、呆れ果ててもはや九段下は

おろか、日本国の上空にもおられますまい。何もかも、あなたが書き、おっしゃったとおり

になってしまいました。

日本人は皆、個性を自ら放棄し、匿名のまま無色透明な存在でありたいと欲し、思考する

ことなく一切を他国に依存し、潮の流れにのって漂うだけのクラゲみたいな集団でしかあ

りません。あなたの命をかけた問いかけに、私たちは常に、アッサリと

「別にどうでもいいんじゃないですか」と答えてきました。そのツケが今、いよいよ回ってこようと


しています。



土地や水源は言うまでもなく、魂まで売り飛ばしてしまったこの絶滅危惧種ですが、近頃

わたしは、日本人には、今よりも幸せな未来が用意されているかもしれないと思うようになりま

した。それは相手が誰であろうと、いかなる反発もなく易々と笑顔で侵略を迎え入れ、

もてなし、歓迎するのが日本人の性なのだと確信しているからなのですが。

日本人ならば皆、あたかも戦後すぐのパンスケさながらに、相手の懐に飛び込み、おもね

り、へつらい、したたかに、こずるく立ち回り、たとえ国籍など捨てても明るく、たくま

しく生きていくのだろうと思っています。

非力な者の哀しい処世術でしか生きていけない現実、しかしそれを情けないとすら全く思

えない人々。


何も考えないことが、現在のわたしたちに許された唯一の武装、というわけです。


己の感情の中に怒りや憎しみ、闘争心が沸き起こることすら恐れ、戦うくらいならば凌辱

も殺戮も嬉々として受け入れる。何をされようと一切の反抗もできず、ただ屠られていく

家畜人の群れ、あなたが絶賛した、まさにあのヤプーそのものです。今や日本人の本質とは、

知恵遅れのマゾヒストにほかなりません。あるいは、ウェルズが「タイムマシーン」で描い

たイーロイ人といってもいいでしょう。

人と戦い、人と争い、人と殺し合うくらいならば、そうする以前に喜んで殺されたい。

死んでもいいから戦争は拒絶する。そして冥土に着いてから、私たちは死んでも平和を守

り抜いたのだと、満足の緩き微笑みで互いを見かわす。

かつてあなたは、戦いを欲せざる者は卑劣をも愛すと言われた。まさしく日本人はそうなりました。



戸締りなど一切せず、丸腰のまま悪辣を極める近所の暴力団に警戒感すら抱かない。私たちはそん

な家の住人です。実弾が飛び交う庭先を、ただ何の感情もなく眺め続けている。抗議する

勇気も手段もない。私有地に入り込み、傍若無人に跋扈する蛮族どもに対し、常に相手の

立場を思い遣り忖度し、ともすれば笑顔で理解まで示してしまう。

一切何も考えておりませんので、何をどうされようが構わないという態度で今、

日本国は営まれておる次第です。この凋落、この没落は世界をあまりに知らなさすぎる、

ナイーブな劣等人種の末路にほかなりません。


国家の存亡、世界の平和などはどうでもよく、卑近な日常の安寧だけを求め、変化を恐れ

決定を下せず、むしろ現状維持のまま没落する方を選び、憂いはあれど備えはなく、誰も

がまるで黙秘権にすがりつく被告人のように無口で、従ってデモクラシーなど適用すらで

きず、外国語は話せても語るべき内実も主張すべき自我ももてず、生命以上に価値のある

概念は存在しないと信じ、すべてを決定し責任をとり、自分達のかわりに考えてくれる独

裁者を無意識に待望し、外人たちによる理不尽な蛮行に対しても、怒ることなく抗議すら

できず、なんとなく有耶無耶にして結局泣き寝入りをし、いつのまにかケロッと忘れる。


何も考えずただスローモーな歩みをすすめ、迫りくる危険を全く感知できず、わけもわか

らぬまま瞬時に踏みつぶされることを宿命づけられた、まるで高速道路を横断するカタツ

ムリのような民族に成り果てました。

すでに日本の国旗は、星の形をした黄色いシミに覆われ、日の丸の下半分は青く醜く変色

しています。


女満別に、丘珠に、千歳に、ロシアの戦闘機が降りてくる。私たちは「イヤイヤ、あんた

らの仕事も大変だべー」と笑いながら喜んで給油をし、整備をし、なんならコーヒーまで

いれてやることでしょう。博多の昭和通りを、那覇の国際通りを往く中国人民軍の戦車の

隊列に、私たちは嬉々として道をあけ、交通整理までして協力するのです。そんな日が現

実に訪れる気がします。実は三国人にされたい人々が、まだ辛うじて日本国民のテイを装

っている、それが今の日本国です。

何者かによって首里城が焼失してしまったのも、まるでロシアの暴走に迎合するかのような「アイヌ史観」で北海道百年記念塔の解体が決められたのも、日本の各地を象徴する


シンボルがあたかも意図的に消されていくように見えるのです。そしてなによりもシナ人の


「京都買います」の声に快哉を叫んで応じる。やはり今後、国籍を強制的に変えられても一向にかまわないという人々の上にだ

けは、輝かしい未来が待っていることでしょう。


戦争に負け、一切の力を否定し、それがそのまま愚かな自己喪失にまでつながっていった

私達の場合は、非力かつ無力であろうとし、矜持も誇りも捨て去った。戦後の日本とは生

きるに値しない時代の生きるに値しない国、無意味な消化試合さながらのあだ花の人生で

溢れかえっています。

もはや愛国でも友情でも道義でも人情でも責務でも仁義でもなく、私達がたどりついたもの

はただ保身という言葉です。

ささやかな日常の維持と社会上の保身以外は、いかなることにも興味も関心もないのです。


日本人は人間と言葉を信じすぎてきました。言葉や観念ではなく行動が最

後にものを言うのだとあなたは教えてくれたにも拘わらず、日本人は未だに「人間話せばわ

かる」という牧歌的な考えから一歩も踏み出そうとはしない。世界の風紀が乱れ切ってい

る現在においてもなお、こんな神話を間抜けに信じ続けている。


しかも、個々が英語を使って世界に発信すらできない、いわば物言えぬ民族ですから


主張もできなければ誤解をただすこともしない。


ですから、平和憲法のもとで、私たちの平和に対する希求、理念、そして行動は


あまりにも幼稚かつ閉鎖的、独善的で、世界には全く通じてこなかったのです。


国際社会が誰一人耳を貸さないでいるにも拘わらず、私達日本人は日本語で日本人に向かって「原爆ゆるすまじ」


などと泣きながらセレモニーを何十年も繰り返している。もはやそれは夏の風物詩でしかない。


間違っても、核保有国の首脳たちに積極的な反核の主張などできません。


日本人の哀れな限界といえるでしょう。






53年前の市ヶ谷台に走った一筋の閃光が持つ意味を、私たちは問われている。行動者の決

意の前では、いかなる言葉も無力でした。

人間が立っていられるのは、国家と言う礎があってこそだということすら忘れ、世界中

すべての人間が右翼であり、愛国者であるという現実を理解できないのならば、絶滅は免れようもあ

りません。もはや「全世界同時革命」の時代でもなければ「世界は一家、人類は皆兄弟」


の時代でもなく、「想像してごらん、世界がいつの日にかひとつになればいい」


なんて歌っている場合じゃないのです。





2023年、あのヒロノミヤが天皇ですよ、考えられますか? その不在感は天皇制そのもの

の終焉に等しい。天皇が天皇でなくなりつつある過程は、日本国の衰退と比例しています。

彼は国民と同じように、沈黙という愚者の知恵を使い、先生の時代では考えられなかった

ような、疫病の世界的な流行のさなかにあっても、三国人への忖度を優先し、国民へのメ

ッセージひとつ発しませんでした。これがこんにちの陛下のご様子です。





先生もあの時、バルコニーではすでに分かっていたことでしょう、これからの日本におい

ても、憲法の改正もなければ、徴兵制も核武装も自衛隊の国軍化も絶対にありません。日

本人にはもう、気力も元気も覇気も意欲も尽き果て、決断力も発信力も発言力も行動力も残されて


いません。



いま、若者たちは本能的に気づいているのでしょう、自分たちの世代に


時間は残されていても、将来も未来も用意されていないことを。なにも出来なくなる日が


目前まで迫っている。そして自分達に続く後の世代など存在しない。


もはや人生の後半は、シナジンとして生きることへの潜在的な覚悟はできているようです。






ただここにいて、動かない、記憶も歴史もない、真夏の底に沈んだままシーンと静まり返っ

た日本と言う名の庭に立つ一本の木、彼はこの庭の所有者が変わろうとまったく意に介さ

ない。


明治と同じスケールでひとり、昭和を強制終了させた先生は、あの時すでに、この国の放

つ腐臭が耐えがたかったに違いありません。


かかる日に、などて三島は英霊となりたまいし。

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