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笑って怒って悲しんだ分

有料記事、意外と読んでくれた人がいて嬉しかったです!
サポートでのブーストもありがとうございます!
またたまに書きますね。
前日は友達に誘われて神田明神に行って運気が上がるようにお参りしてきました。初めて行ったよ。坂を少し上がった高い位置にあるので心地よい風が吹いてた。
開運守りも買った。
みんなの幸せも願ってきたよ。
人は変えられないから、わたしはわたしを幸せにすることしか出来ないけど、人が幸せになるのを祈ることはできるのかな。今日もどこかで誰かが勝手に幸せになって、誰かの願いが叶っているところを想像する。




自由時間が5分だったら

ツイッターが苦手なので、ツイッターを駆使できる人を尊敬している。
今だから言えることだが、あまりにも書くことがなくて昔はマネージャーが管理をしてくれて代わりに書いてくれていたりしてた。申し訳なかった。
ツイッターをする時間があったら景色のいいところに行ったり、友達と喋ったり、好きなものを創作したりする時間に費やしたかった。
ツイッターもまぁ、プロモーションではあるのだろうけど、何かの輪の中に入るのが苦手な自分にとっては、そもそも肌にあってないのだと思う。


今はnoteがあるので、noteは文字の制限も無いし、自由な表現の場として自分の気持ちや感じたことを
なるべくそのまま書けるので、時間を受動的に消費されている感覚がなくて心地がいい。
自分自信と向き合えるし、他者を気にしなくていいのが合っていると思う。
それに読もうと思った人が選択して読めるところも良い。情報が選択できないって結構なストレスになる。

時間は財産と同じように価値があるものって
わかってはいても実感するのはなかなか難しい。
休みの日はダラダラしてしまうし、
部屋の片付けをしようと思っても行動に移すまで時間がかかってしまったりする。

こんな風に言ってる人がいた。


「いつものあなたの休み時間が、一日のうち5分しかなかったら、
あなたは同僚と上司の悪口を言うことを選びますか?それとも大好きなお昼ご飯を食べますか?」

みたいな感じだったかな。
5分しか自由が与えられなかったら
わたしは好きなご飯食べたいよ。どっちもしたいって人もいるかもしれないけど、ご飯が不味くなるようなことはしたくないかな。
セネカの言う人生の短さにも通じるところだけど
人の人生ってこの与えられた5分とそうそう変わりない。
長いようですごく短いし、仕事に使えばお金にもなるこの短い貴重な時間を何に費やすかって
もっと慎重に考えなきゃいけないことなんだと感じる。

わたしはこの5分間の人生を、
大好きなこと、嬉しいこと、幸せなこと、好きな人たちに使いたい。時間の使い方が分からなかったり、うまく使えなかったりすると人は不幸になっていくそうだ。
いつも不満を抱いて誰かを傷つけたり、未来の心配事ばかり考えたり。過去を引きずって後悔に囚われていたり。
それは自由が与えられ、選択できるものを持て余し、時間が有限であると実感しにくい現代の日本では特に起こりやすいことなのかもしれない。
いや、そもそも戦争がもっと盛んな時代から、人間はそれが有意義なことだと思いながらたくさんの人を犠牲にして来ていた。短い人生を、人を傷つけるために使って、傷つけられてもっと短くして死んでいくなんて
なんで人は争ってしまうんだろう。

ここ最近、ずっと考える。
戦争はだめだと、悲惨で残酷でよくないものだと、
小中高とあらゆるところで教えられて来たのに
まだなくならないなんて。
何かに傷付けられて、大切な人を喪った人たちがいる。
大好きな場所が奪われてしまった人がいる。
それは価値観の摩擦による感情論ではなく、物理的な被害だ。
そんな世界じゃ、音楽なんてなんの効力になるというのか。

こうしてわたしが戦争に憤りを感じていること自体も、貴重な5分を費やす内容としてはあまりいいことではないのかもしれない。その5分で命を救える人がいる。その5分で誰かの心に寄り添って抱きしめることができる人がいる。
そして賢い人は今の状況を良くすることを考えるはずだ。

わたしはせめて祈って、曲を作ることくらいしか出来ない。誰かの幸せを願うことは、せめて有意義なものであってほしい。
毎日5分、誰かの幸せを願う習慣をつける。
地球の裏側の誰か。苦しい思いをしている人。道ですれ違った人。大切な友達。孤独を感じている人。
偽善かもしれない。
自己満だとも思う。
誰か、偶然どこかで幸福を拾って、知らぬ間に幸せになってほしい。

祈りや願いは音楽に似ている。


自由落下とピノキオ


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