製造設備のセンサーデータによる予兆保全

窓際に座っていた装置開発部の部長、高松のボルテージは一気に高まり、瞬く間に頂点に達した。そして、甲府工場の生産技術課の副課長の齊藤に向かって激高して言った。

「この技術は俺が産んだんだ、お前ら育てろ」

「専務がなに言ってるかなんて関係ない、お前ら便利になるんだろ。なんで2年も止めてるんだ。進めろよ」

齊藤は顔をこわばらせて聞いていた。

その反対側、私の隣で機械開発部部長の中林が私の陰に隠れるようにしながら、ぼそっと言った。

「そんなこと言って結局自分は何も進めないじゃないか。俺が進めてんだよ。」

高松は齊藤に言ったのではなく、中林に言っているのだった。中林は直接言い返さず、私に訴えた。

このときが、私が加わって3回目の会議だった。その間、ことあるごとに高松と中林の確執を聞いていた。3回目にしてついに、2人が同席したところを見れたわけだが、案の定、火花が飛び散った。

私としては、このプロジェクトを進める上では、これは避けて通れない儀式のように思っていた。

高松はこの技術を探した経緯、その展開の仕方の想定を、誇張しがちではあるが淀みなく説明した。2年近く進展がなかった原因は、実際のところその間に受注が積み上がり生産余力が逼迫しており、忙しくて誰もかまってられなかったに過ぎない。

しかし、高松から散々まくし立てられた齋藤が、やると力強く応えた。

私はイニシエーションが終わったと安堵した。

落ち着きを取り戻したかと、タスクリストを作り、情報共有の場を設定して、役割分担をし、次のアクションを担当者ごとに割り振った。期限はみんなの同意のもと3月末になった。

私はその時に固執したことがあった。それは、今は何のフェーズなのか、その定義の明確化と共有だ。

前回の打ち合わせのあと、甲府駅で特急を待つあいだ、私は仙台から出張してきていた上野と話をした。そこで、このプロジェクトはモチベーションが下がったままだと聞いた。

別の日には、山口工場で同プロジェクトの主担当だった伏見から、やはりモチベーションの低下を聞いた。

2人によるとその原因は3つあり、そのうちの一つは終わりの見えない作業が延々と続くことへの不安感だった。

だから、私は会議の場でフェーズの定義を求めた。それを議事録にも書いたし、情報共有サイトのタイトルにも明示した。

そして、このフェーズが終わったら、次にどう展開すべきか、あるいは撤退するのか、改めて話し合うことを提案した。つまり、いったん3月末をゴールに仕立て上げた。

このことは、このプロジェクトにコンティンジェンシープラン、例えば撤退はあるのかと私が聞いて「撤退などあり得ない」と答えた中林への私なりの回答だった。

撤退はないのかもしれない。しかし世の中の技術が未成熟なら、成熟するまでプロジェクトを保留することも考えられる。進捗を見ながら判断するチェックポイントを設定することで、メンバーには終わりが見えるようになる。これによって、作業が延々と続くことへの不安感を払拭できるのだ。

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