WE ARE BLACK BOX.

初めに

本文に入る前に言っておくが、これはあくまで一個人の考えである。鵜呑みにするべきではない。重要なのは、これを見て、あなたが何を考えるか、何を思うかである。また、私はまだ17歳の未熟な若者であり、文書を書くのは必ずしも得意とは言えないので、もしかしたら細かな矛盾や文法・語法上のミスがあるかもしれない。だが、要点は細かいところではなく、この文章の大意にあると思っているので、細かなミスについてはお手柔らかに指摘していただけると幸いである。では、本題に入ろう。

我々は「ブラックボックス」である

我々は「ブラックボックス」である。少し考えてみれば分かるが、これは当たり前のことである。

これだけ言うと何だか意味不明であるが、これはここ数年の私にとって基本的な考え方であり、私の楽観性を支えている重要な考え方でもある。この世界は悲観的に生きられるようにできていない。少なくとも私はそう考えている。仮にそうでないとしても、楽観的に生きた方が楽しい。そこで、(ちょっと偉そうだが)楽観的に生きる為のコツとしてこの考え方について話してみたいと思う。

「ブラックボックス」という概念

まず「ブラックボックス」という概念について共有された認識を持っておく必要がある。「ブラックボックス」について、Wikipediaにはこのように書いてある。

ブラックボックス (Black box) とは、内部の動作原理や構造を理解していなくても、外部から見た機能や使い方のみを知っていれば十分に得られる結果を利用する事のできる装置や機構の概念。転じて、内部機構を見ることができないよう密閉された機械装置を指してこう呼ぶ。

このように「ブラックボックス」には、元々の意味とそこから派生した意味とがある。このように複数の意味がある単語では、どちらのことを言っているのか予め確認しておかないと無用の混乱を招きかねない。この文章での「ブラックボックス」は後者の、つまり「内部機構を見ることができない」ものや概念を指すものとする。

"絶対に"見ることのできないもの

話を戻そう。「ブラックボックス」は中身を見ることのできないもののことであった。「我々はブラックボックスだ」というのは、「我々の中身は見ることはできない」と言い換えることができる。勿論、「我々には皮膚があるから内臓を直接見ることはできない」などということを言いたいことではない。第一、内臓は解剖すれば見ることができる。私の言っている「ブラックボックス」はもっと、固く閉ざされている。私はこれから、この「ブラックボックス」は、少なくとも現時点では、誰にも開けることができないとまで言い切るつもりでさえいる。その「ブラックボックス」とは何か。それは我々の心だとか精神だとか、そういったものである。

ここまで言えば、先程私がこのことについて「当たり前」と評したのにもある程度納得が行くだろう。我々は、他人の精神が今いかなる状態なのか知ることは完全に不可能である。ただこんな反論もあるかもしれない。
「私は他人の心情を日頃からある程度推察している」
「物語の主人公に感情移入して感動したりするのは違うのか」
「人の気持ちを考えたことはないのか」
はっきり言おう。これらは他人の精神について知っているのではない。結局のところ、あくまで他人の表情、仕草、声の調子、語気、文脈、性格から"推測"しているに過ぎない。

"推測"

ここで重要なことがある。この"推測"は、100%合っているという保証はない、あくまで"推測"である。だが、日常生活に於いて、私たちはこの"推測"はある程󠄁度正しいと思い込んでいる。事実、これらは表情や仕草といった"根拠"があるし、十数年もしくは何十年、もしかしたら百数十年といった長い"経験"にも裏打ちされているので、それなりに合っていることはあるだろう。また、こうしたことは社会で生きていく上では非常に大切なことである。

しかし、ここで一度考えてみてほしい。本当にその"推測"までの道のりは正しかったか何らかのバイアスがかかっていないか。その"根拠"、つまりその"表情"は、その"性格"は、偽りでないか。この答えにTRUE/FALSEで答えるのは適当とは言い難い。TRUEをとってもFALSEをとっても不確実な点が多すぎる。では、適当な解は何だろうか。私が思春期を通じて辿り着いた答えは、「分からない。」であった。私たちは本当に相手の精神を正しく推測できているのかは結局のところ分からない。相手が真に何を考えているのか、どう感じているのか知るのは不可能である。結局のところ、我々は思い込んでいるに過ぎないのである。

別に思い込むことは悪いことだとは思わない。そうやって推し量ろうとすることで対人関係が良くなることはあるだろうし、あれこれ思案する楽しみもあるかもしれない。しかし、我々はあまりにもデメリットに目を向けなさ過ぎだと思う。

"思い込み"と化す"推測"

我々には感情だとかその日の気分だとかがある。同じ人間の脳内で起きている精神活動である以上、これらは思考にも影響し得るだろう。実際の例を想定してみよう。今日は何だか気分がノらない。昨日返ってきたテストの点が芳しくなかったからだろうか。そんな時に友達に少し冷たく扱われた。そんなときあなたはどう思うだろうか。これはかなり個人差が出るだろう。ここであなたは「友達に嫌われた」と"思い込んだ"としてみよう。すると気分は更に落ち込み、ありとあらゆることを悪く思うようになるかもしれないし、友達のことを嫌いになるかもしれないし、自分のことをダメ人間だと思うかもしれない。そう思わなかったとしても、精神衛生上良くないのは確かだ。では、なぜあなたは気分が落ち込んでいるのだろうか。友達に嫌われたからだろうか。いや、そうではない。友達に嫌われたと"思い込んだ"からである。もう一度少し冷たく扱われたときのことを考えてみよう。そのとき考えられた選択肢は本当にそれだけだっただろうか。もしかすると、相手は赤点が確定的でそれどころではなかったのかもしれないし、体調が優れなかったのかもしれない。本当のところは分からない。ただ自分の思い込みによって自分を苦しめているだけなのである。

じゃあ相手に訊いてみれば解決かというと、私はそういうことでもないと思う。先程の様に、冷たく扱われたと感じたとする。相手に体調でも悪いのかと訊いてみる。「うん、ちょっと咳が...」これで終われば良いのだが、たとえばこの主人公が超絶ネガティブな性格だったとしよう。どう思うだろうか。「こんなこと言ってるけど本当は私のこと嫌いで、建前を言ってるだけなんでしょ。」と思うかもしれない。誰にもこの友達が建前を言っていないと断言することはできない。仮に本人が建前でないと否定したとしよう。それでも、それが嘘でないと言い切ることは難しい。

かなり前の方で「私の言っている「ブラックボックス」はもっと、固く閉ざされている。」と言ったのはそういうことなのである。外から中身を知ることはいかなる手段を以ってしても、完璧に、絶対に不可能。私は、生物の精神とはそういうものだと思っている。

「ブラックボックス」を楽観的に見る

何だかあんまり明るくなさそうな話に聞こえるかもしれない。「中身を知ることができない」などと否定形で語られているから、そう感じられるのかもしれない。しかし、確かに私はこの考えを「私の楽観性を支えている重要な考え方でもある」と言った。一体どういうことか。この「知ることができない」という性質を逆手に取るのである。先程も述べたように、我々はこの知ることのできない部分を、悪く言えば好き勝手に補間している。好き勝手にやる以上、都合の良い方向に補間しまくってしまえば良いのである。

先程の様に冷たく扱われたとしよう。冷たく扱われた理由は不明である。ここからどう推測するかは自由なのである。もしかしたら好意があるのかもしれないと思ってみてもいいかもしれない。思うだけなら自由である。寧ろ思えるのだから思わないと損とまで言える。勿論実際に行動に出したらヤバい。ともかく、精神衛生上こっちの方が良いのは間違いない。そこまで行かなくても、常に自分の推測が合っているかどうか、他に"推測"の道筋は無いか考えるのはどの分野に於いても重要なことだと私は思う。

要約

何の話だったかよく分からなくなってしまった。短く纒めよう。まず、相手の精神について正確に知るのはいかなる手段を以ってしても不可能。だが、普段我々はなんとか推測して生きている。しかし、これを悪い方向に推測して思い込んでしまうこともあるだろう。だが、それは結局のところ推測でしかないし、他にも可能性があることを忘れてはならない。

そういうことを説得力を持った文体で語りたかったのだが、足りない文章力と午前零時台の思考力とでは少し困難があったようだ。何はともあれ、普段から私はこういうことを考えてのらりくらりと生きている。この文章を参考に、ポジティブに生きる人が増えてくれたら嬉しい所存である。

3745文字

令和辛丑七月廿一日

Knit sbm.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?