国際女性デーを前に、「#メディアもつながる」でなにが起きているのか

はじめまして、knbchです。

 3月8日は国際女性デーです。2020年の国際女性デーを前に、波乱がありました。
 3月1日のハフポストの記事です。

 「テレビや新聞、ウェブメディアの枠組みを超えて、連帯」するのだそうです。

国際女性デーに合わせて企画を展開するメディア
<新聞>
朝日新聞「Dear Girls」、毎日新聞「声をつないで」、北海道新聞、神奈川新聞、徳島新聞、南日本新聞、琉球新報
<テレビ>
TBSNEWS
<ウェブメディア>
ハフポスト日本版、Abema TV、Buzzfeed Japan、 Business Insider Japan
(2020年3月1日現在)


問題点

 この連帯に関する一連の記事やツイートの中で、問題点がふたつある。

 ひとつは、「ニュースが少しスキになるノート from TBS」に3月3日に投稿された、「私たちはライバルじゃない、⼿を取り合う仲間たちだ。 「#国際⼥性デー2020」他メディア連携になぜ参加するか。」という記事において、フェミニストを指して「なりたくなかったあれ」と呼んだこと。
 もうひとつは、国際女性デーを「女性のための日」ではなく「みんなのための日」とする意図。

問題点ひとつめ 「なりたくなかったあれ」

 ひとつめの問題点については、本日3月7日に投稿されたnoteの中で「なりたくなかったあれ」呼ばわりについて、3月3日のnoteを書いたご本人から謝罪があり、すでに3月3日に投稿されたnoteは削除されているので、そういう意味ではあまり強く言及したくはないのだけれど、これはこれでモヤる。

 このnoteは「ニュースが少しスキになるノート from TBS」という名前であり、「TBSテレビ報道局が運営するnote」である。なのになぜ、川畑さん個人が、

私をそうさせたのは「会社、組織、社会」ではなく、
単純に私の問題です。
私が甘えていました。

と書かなくてはいけなかったのか。

 実際にその記事を書いたことが、会社による強制ではなかったとしても、その記事や企画にGOサインを出したのは上司やTBSという会社、ではないのかな?川畑さんには意思決定権や記事にGOサインを出す裁量はあるんだろうか?


問題点ふたつめ 「性別に関係なく誰もが」

 ふたつめの問題点は、私の知る限りまだ解決されていない。まず各社のツイートの文言について。

毎日新聞「性別によらず誰もが」「性差別や性被害をなくすため」
朝日新聞 Dear Girls「ジェンダー平等な社会」
毎日新聞統合デジタル取材センター「性別によらず誰もが」「性差別や性被害をなくすため」
秋田さきがけ・くらし班「男女格差や性暴力の問題」
徳島新聞「ジェンダー平等」「女性の人権や性差別」
琉球新報「女性への差別撤廃と地位向上を考える日」「誰もが自分らしく」
TBS NEWS「性別に関係なくすべての人が」
ハフポスト日本版「性別に関係なく、誰もが自由に選択でき、生きられるように」
BuzzFeed Japan「誰もが性別に関係なく尊重され、自由に生きられる社会」
BusinessInsiderJapan「ジェンダーや人権問題の意識」

 「国際女性デー」以外の部分で「女性」や「女」という字を使用したのは、秋田さきがけ・くらし班、徳島新聞、琉球新報の3社のみだ。他の、朝日新聞「Dear Girls」、毎日新聞、TBSNEWS、ハフポスト日本版、Buzzfeed Japan、 Business Insider Japanは、「国際女性デー」以外で「女」という字を使ってすらいない。「国際女性デーを女性という言葉を使わずに説明する」みたいなルールでもあるのか、と疑うレベル。勘違いしている人もいるかもしれないけれど、「ジェンダー」も「人権」も本来女性のためだけのものではない。
 女性という言葉を使わない結果、内容としても、「女性が尊重される」とか「女性の人権」ではなく、「みんなが尊重される」「みんなの人権」という流れになっている。

 各社のツイート共通の画像の中では、「女性」という字がとっても小さく目立たない。よほど「女性」という言葉を主張したくないらしい。「誰もが」のほうがよほど大きなフォントで、画像の中央に配置されている。デザインって、意図をもってやるものだよね?文字やデザインを使って人に伝えることを仕事にしている人が作ったのなら、その意図が反映されていると捉えるのが当然だ。「女性」を「みんな」よりも小さい扱いとしたい意図を感じ取るのは当然のことだ。もし、メディア業界のリーダー層の女性を本当に30%にできたら、このようなデザインの画像も採用されなくなるだろうか。でも、画像の基本カラーがピンクじゃないことは私にとっては好印象ではある。

 これらのような文言や画像のデザインだと、連帯した各社が足並みをそろえて国際女性デーから「女性」を締め出そうとしているように見えるのは当然じゃないだろうか。

 「今日はあなたの誕生日だけどあなただけのためのものじゃないから、お友だち全員分の誕生日を祝おう」と言われたらもうそれいじめじゃない?
 「母の日は母だけのためのものじゃないから、父にも祖父母にも学校の先生にも感謝しよう」と言うのは、母を蔑ろにしていると言われても仕方のないことじゃないだろうか?
 なのにどうして、国際女性デーに「誰もが」なんて言われなきゃいけないの?

 このことについては、まだ誰も訂正も謝罪もしていないのではないかな。このことについては、私には川畑さん個人の責任ではないように見える。なぜなら、「なりたくなかったあれ」と書いたのはTBSだけかもしれないけれど、国際女性デーに言及するのに「女性が」と書く代わりに「誰もが」と書いたのはTBSだけではないから。今回の企画に乗った人たちは、誰もこのことに違和感を認めないのだろうか。今後の動きも気になる。

 明日は国際女性デー。女性のための日。365日のうちの1日くらいは、みんなでみんなのことを考えるのではなく、みんなが女性差別や女性の権利について考える日であってほしい。


おまけ

ここからは私個人が持ってる庶民感情、個人の感想ですが(「なんとなくそう感じていた」程度のことなので、不正確なことも多く含まれていると思います)。
 テレビや新聞って、多少の違いこそあれ基本的には同じようなこと言ってると私は思ってました。バラエティ番組はどれもこれもしょうもないし(失礼、でも私が昔よりもテレビ離れしている理由はそういう印象の積み重ねによる)、ニュースだって、大きな事件があれば同じ事件についてどの局も新聞も報道するじゃないですか。同じネタを取り合うという意味ではたしかにライバルで、連帯ではないのかもしれないですが、ボーッとしたいち視聴者の私からすれば「違うメディアが似たようなことを言う」のはわりとよくある光景で、鈍感な私はあまり目新しさを感じないのです。
 むしろ、女性差別や国際女性デーに際してメディアが連帯することが目新しいとするなら、それは連帯していることそのものじゃなくて、「メディアは男性優位社会なのに女性差別に関して連帯する」という点でしょう。元々、今までメディアには男性優位社会という、男性による連帯とも言える状況があったのではないでしょうか?「私はフェミニストではないんですけど」と前置きするしかないような空気感はどの会社もお揃いだったのでしょう。そういう意味では、足並みが揃うことそのものは別に珍しくもなんともない、連帯できないのは潜在的フェミニストや女性だけで、男性や男性優位社会に迎合できる女性は最初からしっかり同じ意見で連帯してたじゃないですか、と思ってしまいました。

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