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「ギターと孤独と蒼い惑星」の歌詞に見る「ぼっちらしさ」

はじめに

「ギターと孤独と蒼い惑星」とは、昨夜放送された『ぼっち・ざ・ろっく!』5話において初披露された、結束バンドによる楽曲である。
 4話では、主人公の後藤ひとり(以下ぼっち)がこの曲の作詞に挑み、少々狂いながらもなんとか書き抜く様子が描かれた。ぼっちが書いたこの曲の歌詞を見た結束バンドのメンバー山田リョウは、「暗い。でも、ぼっちらしい。」という感想を述べた。
 ぼっちが書いた「ぼっちらしい」歌詞。その観点から改めてこの曲の歌詞を改めて見つめることで、「ぼっちらしさ」を再発見することを目指す。また、この過程を経ることで、今よりも一層キャラクター達を理解し、このアニメとこの曲をもっと楽しむことも視野に入れながら色々と書いていく。

最初の「星」

まず一番のAメロの歌詞に注目しよう。

  突然降る夕立 あぁ傘もないや嫌
  空のご機嫌なんか知らない
  季節の変わり目の服は何着りゃいいんだろ
  春と秋 どこいっちゃったんだよ

 冒頭の二行からは、天気に翻弄され、不満を感じながら少し投げやりになってしまっている心情が見て取れる。後半の二行でも、季節の変化そのものに対する不満を感じる様が描かれている。
 ここで注目したいのは、前半と後半のどちらにしても、この言葉を発している人物が地面の上に存在し、空を見上げる立場にあるということだ。
 「夕立に降られる」といった表現は、まさにこの立場になければあり得ない。また、季節に対して服を合わせようとする姿勢(結局は合わせられていないようだが)からは、気象というスケールの大きなものに対して適応しようとするちっぽけな人間の姿を見出せる。
 つまり、この1番の段階では、この主体の視点は地球にあるということが言える。
 このことを踏まえ、サビの歌詞を見てみよう。

  足りない 足りない誰にも気づかれない
  殴り書きみたいな音 出せない状態で
  叫んだよ
  「ありのまま」なんて誰に見せるんだ
  馬鹿なわたしは歌うだけ
  ぶちまけちゃおうか 星に

 四行目から五行目では、自己を表明する相手を見つけることができず、誰に向けるわけでもなくただ歌う姿を見出せる。おそらく、その理由は本人の卑屈さだろう。
 そして最後、「星」に向けて自己を暴露するように歌う。
 先述した冒頭の歌詞を踏まえ、視点が地上にあると考えると、ここの「星」は夜空に輝く「星」と推測することができる。つまり、今この人物は、地球上に足をつけて、夜空を見上げて歌っているのである。
 少し言い過ぎかもしれないが、「星」に向けて歌う行為が積極的に行われていないという動機にまつわる点にも注目しておきたい。自分の他に、歌う対象がどこにも見つからないため''仕方なく''「星」にぶちまける姿勢を見出せる。
 これらのことをまとめると、この曲の1番は、地球上に立つ孤独な人物が、空を見上げ、その孤独ゆえに仕方なく、夜空の星に自分を歌い上げる姿を描いていると言えないだろうか。

最後の「星」

 一旦2番は飛ばし、ラスサビに至るまでの歌詞を見てみよう。

  蒼い惑星 ひとりぼっち
  いっぱいの音を聞いてきた
  回り続けて 幾億年一瞬でもいいから 
  聞いて 聴けよ

 前章の内容から見ると、動機や姿勢の点において立場が大きく変わっていることに気づく。
 まず、「聞いて 聴けよ」という、呼びかけるような言い方から命令的な言い方へ変わる表現に注意すると、自分の音を明確に誰かに聞かせようとする積極的な姿勢が見られる。「ありのままの自分」を「誰に見せるんだ」と言い、その相手を見つけようともしていない姿勢から変化が生じている。
 そして、一行目の「蒼い惑星」といった表現。地球が青いことが最早常識として受け止められる現在では、あまり気に留められないかもしれない。しかし、そもそも人類が、地球が青い事実に気付いたのはなぜか。それは、地球を飛び出し、外側から地球を見下ろしたからだ。
 すなわち、地球を「蒼い」と言う表現において、その視点は地球外に飛び立っているのである。地球上にいて、空を見上げる様子を表していた1番とは打って変わって、ここから最後にかけては地球、ひいては世界全体を捉えた視点から描かれているのだ。
 この人物は、先に書いた積極的姿勢でもって、最早誰か1人ではなく、世界全体に対して自己を歌い上げようとしている。

  わたし わたし わたしはここにいる
  殴り書きみたいな音
  出せない状態で 叫んだよ
  なんかに なりたい なりたい
  何者かでいい
  馬鹿な私は歌うだけ
  ぶちまけちゃおうか 星に

 この最後の「星」。これは、地上から見上げるしかない夜空に輝く「星」ではない。蒼い「惑星(ほし)」であり、地球であり、世界だ。「惑星」と書いて「ほし」と読むタイトルの付け方も、最後の「星」(ほし)を「蒼い惑星」=「地球」に重ね合わせることを暗示しているように思える。 1番では、空を見上げ、虚空に向けて自分を歌うしかなかったこの人物は、ここに来て地球を視界に捉え、世界全体に向けて積極的に自己を歌い上げているのである。
 しかし、ここで一つの疑問が生じる。なぜこの人はこんなにも大きく変わることができたのだろう。

手に収まる「地球」

 1番とラストの間、つまり2番の歌詞にその手がかりがあると推測することができる。
 そこで、2番冒頭の歌詞に注意して見ると、少し気になる部分がある。

  エリクサーに張り替える作業も
  なんとなくなんだ 
  欠けた爪を少し触る
  半径300mmの体で必死に鳴いてる
  音楽にとっちゃ ココが地球だな

 エリクサーとは、回復薬などではなく、ギターの弦のことを言うらしい。「張り替える」といった表現がなされていることからも、まずここでギターを手に取る姿が浮かぶ。
 「半径300mm」程度の、手に握れる程に小さいギターを使えば、あらゆる音楽を奏でることができる。そのことを踏まえ、ギターのことを音楽における「地球」(=全てがある場所)と感じたのだろう。
 そして、この人物は、自分がギターを手に収め、「地球」すらも手に収めている感覚を味わった時、強い自信を得たのではないか。
 自信を得た後、視点は大きく転換したのだ。自分が生きるこの地球は案外ちっぽけなもので、それを手に取れる自分は強いのだという、全能感のようなものを手に入れたのではないだろうか。
 この後の2番Bパートでは、

  その手で この鉄を弾いたら
  何かが変わって見えた…ような。

 といったように、ギターを扱うことで生じた自分の中の変化を感じ取っているようだ。
 また、歌詞の中では頑なに「ギター」という単語が使われない。「必死に鳴いてる」と言いまるで生きているかのように表したり、「鉄を弾」くと言って物質的なイメージを持たせたりしている。これは、ギターを単なる楽器として見ていないことの表れと想像することができる。
 また過剰な言い方にになってしまうかもしれないが、ギターを、生物のように蠢きながら、ただの物質の総体でもある、まさに「地球」に重ね合わせようとしているかのようにも見えてくる。

最後に

 まとめると、この曲の歌詞では、初めは孤独に誰でもない夜空に向けて自分を歌うしかなかったが、ギターを手に取り自信を手に入れ、最終的には地球すら見下ろして世界向けて自分を歌い上げられるようになる、という過程が表現されている。
 ここで冷静になってよく考えてみると、たかがギターを持ったくらいでよくここまで思い上がれるものである。自分を歌う対象についても、特定の相手を決めず、本当に全員に対し「聴けよ」と命令口調で言い張つほど自己承認欲求が強い。
 しかし、これこそが「ぼっちらしさ」なのではないだろうか。
 ぼっちは、人に褒められるとすぐに調子に乗ったり、「チヤホヤされたい」という動機でひたすらにギター続けていた。承認欲求に至っては、その強さを自分で認識していて、「承認欲求モンスター」に変容する恐れも抱いている。
 そんなぼっちが、自分らしさを歌詞に表したために、この歌詞が生まれたのではないか。
 根暗で卑屈で「孤独」な人物が、「ギター」を手に取ることで変わり、「蒼い惑星(ほし)」を相手に歌う。これがぼっちの思う自分の姿であり、「ギターヒーロー」なのだ。
 「ぼっちらしさ」を、ぼっち自身が描いた曲こそが、この「ギターと孤独と蒼い惑星」なのである。
 この文を読み終えてくれたなら、改めて歌詞を味わい、曲を聞いてほしい。もしそこで、曲から得られる感動が、文を読む前より少しでも大きくなっていたとしたら嬉しく思う。


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