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藤原月彦と私(『藤原月彦全句集』を祝って)

 「藤原月彦とは何者なのか」と言われたら「伝説の俳人」と答えるかな。伝説とつけたけれども、私にとって歌人のなかでは身近な存在であり、本当に伝説上の俳人かかというとちがいます。

 私の人生に占める月彦歴は長い。十代半ばに雑誌「小説JUNE」の「黄昏詞華館」※で出会った。以来30年を超える年月を月彦の、また龍一郎の読者としてすごしてきた。
 ただ、近い存在であったかというと微妙だと思う。

※よく「詩歌」とまちがわれる。「JUNE」って何という人は「JUNE 雑誌」検索してください(説明略)。

 「黄昏詞華館」は、「黄昏詞華館」と「黄昏詞華館入門」があって、本篇掲載の俳句の作者として、また入門の選者としてのフジワラさんを最初に知りました。
 「JUNE」のバックナンバーを読むうちに「黄昏詞華館」は最初はJUNE読みできる短歌の紹介欄だったことを知り、詩歌の紹介者としてのフジワラさんを知ります。フジワラさん的には詩歌紹介者→投稿欄選者という順番ですが、私が順番に読んでいないため逆になります。

 下記のように私にとってのフジワラさんが増えていきました。

(1)「JUNE」掲載の俳人、投稿欄選者(読者として)
(2)雑誌投稿欄の選者(一投稿者として)
(3)詩歌紹介者
(4)短歌人会の先輩(すでに編集委員だった)
(5)歌集の作者
(6)句集の作者
(7)直接お世話になっている「短歌人」編集委員

 昔、結社内有志でやっていた同人誌「柑」で歌集刊行時にフジワラ特集をしたり、『日本幻想作家事典』で藤原月彦・龍一郎の担当もしました。なのでフジワラさんは私にとって「執筆対象」だったこともあります、
https://amzn.to/2J0an3n

 私が最初に買った歌集は、短歌人会入会後に購入した『夢見る頃を過ぎても』(邑書林)再版です。取り寄せたりした訳ではなく、東京堂にあったものを買いました。
 その次にぽえむ・ぱろうるにあった『貴腐』(深夜叢書社)を購入。新刊です。深夜叢書社は在庫が発掘されることがあり、平成に入ってからも『王権神授説』や『貴腐』が新刊で出ているのを見たことがあります。
 あとは新刊で買えるものは新刊で買い、そうでないものは古本で集めました(自力で集めるという方針でしたが『盗汗集』だけはどうしようもなく、御本人から在庫を分けていただくという裏技を使いました)。

 俳人としてのフジワラさんは「なんか「俳句研究」とやらの賞をとったことあるらしい」「渦というところにいるらしい」(←「黄昏詞華館入門」のプロフィールに書いてあった)程度の知識でした。

 後に「俳句研究」では五十句競作の二席(って短歌の新人賞の次席扱いでいいんだろうか?)あることを知ったり、その誌面を見たりもするのですが、その価値というのは私はわからないままです。いまだに俳句も鑑賞の仕方がわかりません。

 1973年に「俳句研究」では五十句競作二席。その後も同賞に応募していたようです。当時の編集が高柳重信。そして1975年に『王権神授説』刊行。早大4年の12月です。

 よく「月彦は俳人で、龍一郎が歌人」とされてきたと思います。句集刊行後の1970年代後半あたりは「短歌人」誌上でも月彦名義だったりして、月彦の短歌が存在します。このころは月彦名義で統一される気持があったのかもしれません。フジワラさんも名義使用の詳細おぼえていないと思われるので、これまでもつっこまないできました。
 なので「基本的に月彦は俳人で、龍一郎が歌人(例外あり)」と私は説明するようにしています。
 SF、競馬、落語といった他趣味他名義での執筆もあり、フジワラさんの全容は当時も現在も不明です。

 赤尾兜子の「渦」、摂津幸彦の「豈」に所属というのが俳人的プロフィールになるのだと思いますが、よく書いてあるから書いているだけで私がその価値がわかっていないという。「渦」は兜子没後に退会。「豈」は現在も所属。
 なにもわからないながらも高柳重信、摂津幸彦、赤尾兜子といった名前をおぼえたのはフジワラさんのおかげです。私は他の俳人は知識がないのでよくわかりませんが、俳句知識として偏っているのはわかります(言われたこともある)。
 私とっては耽美的作風であることが重要で、「好き」と思ったり「そうでもないな」というのがあったりという句の読み方というか差別というかはしていました。評価というより好き嫌いに近いものだと思います。

 月彦句集としては1989年3月刊行の『魔都〈美貌夜行篇〉』が最後です。『魔都』は、全百巻を銘打って刊行開始されましたが、三巻で途絶。
 同年9月刊行の歌集『夢みる頃を過ぎても』を出してからはほぼ歌人活動に専念します。これ以降の月彦名義の作品はない訳ではないのですが、未収録です。ML上の歌仙で月彦名義で出されていたような記憶もあるので1990年代のどこかまでは月彦は生きていたようです。
 いれかわるように「媚庵」名義を使用。「媚庵」はボリス・ヴィアン由来と思われます。確認してませんが(しきれませんが)、「月彦」「龍一郎」「媚庵」の俳句は入れ替わりではなく時系列としては混在していると思います。

 実体としての藤原龍一郎という人は現在も普通に活動中です。普段は龍一郎に埋もれていますが、皮をむくと「月彦」な訳です。しかし人間の皮はむけません。いるけれども、もういない。フジワラ語でいえばギミックとしての「伝説」なのだと思います(この場合の「ギミック」はプロレス由来)。
 こういう概念となった「月彦」を私は愛好していますし、フジワラさんも大切に思っているのだと信じています。


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(関連記事)
・『藤原月彦全句集』の紹介
https://note.mu/klage/n/n2e357c5df2ac

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(付記)

 前のほうに「ただ、近い存在であったかというと微妙だと思う。」と書いたのは、最初に書いたものがもう少し詳細な「フジワラさんと私」だったからです。私は最初タカセさんに歌を出していたので、歌人としてフジワラさんにお世話になっているのはその後です。

 こういう文章書くと、近い立場っぽく見られますが、詞華館のお姉様方がいらっしゃったし、結社内には20代からフジワラさんと一緒にやってきた方々がいらっしゃる訳です。結社外の方々に比べたら近いのかもしれませんが、近いという自覚はなく。親しい自慢に見られたくないとかそういう自意識じゃなくて、本当に親しいという実感がないのです。

 ……という内容を上記の文章に入れ込もうとしたけれど、無理だったので付記としてつけます。


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