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「短歌人」という誌名について

 「短歌人」1989年4月号は50周年記念号である。その中に「「短歌人」ナゾと真実」(小池光)という文章がある。掲載は58~59頁。みひらきで囲み罫があることからもわかるように、バックナンバーを眺めながらつらつらと思うことを書いたというかつぶやいたというかの軽く読める文章。

 そのなかに下記のような一節がある。

「短歌人」という名称の由来については(実はいちばんこれを調べたかったのである)どこにも発見できなかった。普通、結社などおこす時は、どこかにもっともらしくその名の由来を示す。ところがわれわれの先輩はこういうところにも無頓着であったとみえて、何も書き残しておいてくれない。もはや<永遠の謎>である。

「短歌人」1989年4月号p.59「「短歌人」ナゾと真実」(小池光)

 続いて下記のような文章を引用して〆ている(潟岡さん引用部は孫引。私は元の文章は確認していません)。

 代わりに、潟岡さんが書いたこんな一文があった。
「『短歌人』という氾称的な誌名は、誰の発案によるのであったろうか。創作は所詮人それぞれの営為でしかないという自明の理によって、とくに意味ありげな名辞に仮託することを避けた理由も分からぬではない。なにぶん五十年近い歳月が流れ、代が替わり、人も替わってしまった」(短歌雑誌連盟会報五六号)。その潟岡さんも今はない

「短歌人」1989年4月号p.59「「短歌人」ナゾと真実」(小池光)

 

 「何も書き残しておいてくれない」というのはちがうのではないかと思う。由来は不明なのはまったくそのとおりだけど。

 「短歌人」1959年4月号(20周年記念号)p.15~20掲載「座談会 短歌人の歩み」の誌名決定の際のあらましが出てくる箇所を引用する。

潟岡 短歌人という名称は……。
鵜木 皆で考えてもちよることにしたが、栗原氏が「ちようたん」、私は「青かし」
小宮 山川さんは何でした。ご記憶ありませんか。
 私は「風」でした。
鵜木 皆の出したのに対して先生(瀏)はなかなか決をいわず短評を下しておられたが最後に「短歌人」と出され、結局皆がそれがよいということで一決した。

「短歌人」1959年4月号p.16「座談会 短歌人の歩み」

 ということで「短歌人」の名称は瀏の発案ということが誌面に残されているのであった。

 上記発言者のフルネームは下記のとおり。

潟岡=潟岡路人
鵜木=鵜木保
小宮=小宮良太郎

 小宮がよびかけている「山川」は山川柳子。この質問に対する答えはないので引用にない。発言にでてくる「栗原」は栗原潔子。

 「短歌雑誌連盟会報五六号」は検索によると1986年発行。20周年記念号より後年である。
 潟岡さんが1986年に「誰の発案によるのであったろうか」と書いたのは、1959年に「短歌人という名称は……」と話題をふったことを忘れてしまったからだろうか。座談会をまとめる際、流れ上必要なので「短歌人という名称は……」と担当者が入れただけで、実際には潟岡さんは発言していなかったのかもしれない。さらに言えば、この座談会で潟岡さんは司会だったのでそのように割り当てられただけなのかもしれない。


 ついでに。
 小池さんはこのようにも書いている。

 会規抄というのは会規の抄出の意だから、抄出でないところの正式のそれがどこかにあるべき理屈である。ところが、ぼくは入会何十年かになるがこれまで一度も正式の会規本文を見た記憶がない。

「短歌人」1989年4月号p.58「「短歌人」ナゾと真実」(小池光)

 会規は、おおむね昭和21年までは変更があるたびに全文が掲載され、そのままの場合は不掲載(全文省略)もしくは「会規抄」「清規抄」として掲載された。おそらく変更がある際に会規を掲載するというのが引き継がれずに戦後の大半の時間がすぎてしまったというだけと思われる。

 会規は全体に関わるもの、投稿に関するもの、添削についての項目から成る。会費や原稿送付先も会規に含まれるため、戦前は何度か「改正」とついた会規が全文掲載されている。


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20210410追記
この文章には続きがあります。

続・「短歌人」という誌名について
https://note.com/klage/n/n05852d31c5a8

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※上記は引用の範囲内のつもりですが、誌面を見ていない人が多いため気持ち多めに引いています。関係者の方でもし問題あると感じられる場合はご連絡ください。すみやかに対処いたします。


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