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大学時代の思い出(3)

 寮のめしが、あまりにひどかったので、自炊をはじめることに。食事代を抜くと寮費は1万円。親からの仕送りが6万円だったので、残りの5万円で生活を維持していくことになった。

 まず、自炊のためにアルミ製の片手鍋を買った。これで、最低限インスタントラーメンぐらいは食べられる。あとは食器類、箸やスプーンなどを購入。冷蔵庫とフライパンは寮共有のものをしばらく使わせてもらうことにした。

 朝と、昼は、大学の食堂を利用する。一日一食ぐらいならなんとかなると軽い気持ちではじめた。ところが、自炊をはじめた5月は、教材やノートなど備品を購入しなければならず、また、衣服も最低限必要だったため、出費がかさみ、生活はぎりぎりだった。

 その頃のインスタントラーメンは、メーカー品だと50円から60円。スーパーブランド(今でいうプライベイトブランド)が30円だった。当然、夕飯は、30円のインスタントラーメンを毎日食べることになる。もちろん、具なし。

 学食の値段は、ご飯が80円、味噌汁30円、カレーライスが190円、うどんもしくはそばのかけが180円だったと記憶している。他のメニューの記憶は残っていない。おそらく、他のものも食べてはいただろうけど、かなりの頻度でこれらだけを食べていたのだと思う。

 今でも、恥ずかしいがありがたい思い出として残っているのが、ご飯と味噌汁だけを頼んだとき、食堂のおばちゃんがそっと生卵を付けてくれたこと。思わず、「ありがとうございます」頭を下げた。

 これでは、いかんということでアルバイトを捜すことにする。大学の掲示板に貼ってあったアルバイト先からなぜか深夜のバイトを選んでしまう。今思い返してみても、なぜ深夜のバイトを選んだのかわからない。深夜12時から朝6時までレストランでボーイのアルバイトをはじめる。

 確か時給は450円だったと思う。この頃の山形のアルバイト代は、時給300円から400円ぐらいが相場で、沖縄県の次に人件費が安い地域だった。東京のバイト代を聞いて、「そんなに高いのか!」とびっくりしたものだ。

 授業が終わると、まっすぐ寮に帰り、まだ日がある時間にベッドに潜り込む。夜10時頃に起きて、自転車でバイト先の24時間営業のレストランに向かう。朝6時までバイトして朝焼けの中、店にあったジュークボックスで客足がなくなった店内でその頃お気に入りだった八神純子の「パープルタウン」を聞いて、バイトが終了する。ジュークボックスは、1曲100円だった。

 奥の席には、テーブル面にブラウン管が埋め込まれており、100円でテレビゲームができるテーブルがあり、その頃流行っていたギャラクシーというゲームも何度かやったことを覚えている。

 客層は、ほとんどが飲み屋関係の人で、店を終えたあとに飲食にくる人がほとんどだった。中には明らかにやばそうな仕事をしている人もいたが、そういう人に限って逆に問題をおこすような振る舞いはしなかった。

 店を手伝って覚えたのは、ミルクティーの入れ方と、パフェ用のリンゴをウサギにカットすること。目標だったパフェ用五段飾りリンゴは最後まで作ることができなかった。基本的に不器用なのだ。

 そんな生活を2ヶ月間ほど続けたある日、いつもように学校から帰り、ベッドに潜り込んだところまではいつも通りだった。しかし、目が覚めてみると何か雰囲気が違う。変だなあと思いながら目覚まし時計を見る。時間はいつもの10時過ぎ、特に変わったところはない。ただ、いつもよりもすごく寝た気がして、非常に身体が怠い。もう一度、時計を見てみて違いに気づいた。日付が一日違っている。そう、24時間プラスアルファ寝てしまったのだ。バイト先にすぐ謝りの電話を入れた。

 結局、こんな生活は無理だと気づきバイト先を3ヶ月強でやめることにした。そのあと選んだバイトは普通のクリーニング店だった。蒸し風呂のようなところで、ドライ洗濯機に洗い物を出し入れするのが仕事、時給は400円だった。何回かバイトに遅れ、オーナーにしこたま怒られたことがあったが、山形弁をまだ理解できておらず、オーナーが何を喋ってるのか意味がわからず、不思議と怒られているという意識が無かった。もちろん、頭を下げて済まなそうな姿勢をとることだけは忘れなかった。

つづく

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