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大学時代の思い出(8)

 みなさんは、高橋留美子さんの「めぞん一刻」という漫画をご存じだろうか。ちょうど大学時代に漫画雑誌に連載されていた古いアパートを舞台としたラブコメ漫画だ。

 管理人の音無響子さんはいなかったけれど、イメージは漫画とほとんど同じボロボロ(大家さん申し訳ない)アパートに2年から大学を卒業するまで住むことになった。アパートと違うのは、台所と便所、そして風呂が共同であることで、当時、間借りといわれていた。

 大学生のほとんどがこの間借りにお世話になっていた。従って、友達が住んでいるところももちろん間借り、もしくは寮のいずれかだった。そういえば、自宅から通っていた人を一人も知らなかった。

 住むことになった間借りは、学校から五六分のところにあり、近くに酒屋さんがあった。その酒屋さんにはけっこうお世話になった。特に赤ら顔の旦那さんは、学生を捕まえては部屋に通して酒の相手をさせる。学生にすれば、ただでお酒を飲ませてくれるので、うれしい限りなのだが、いつもお店で顔を合わせる酒屋の女将さんにはバツが悪いことこの上なかった。

 近くに銭湯もあった。この銭湯がちょっと変わっていて、番台を通り、更衣室で服を脱いで、風呂場に入るときの入り口が格子をくぐるようになっていて、屈んで中に入るのだ。おそらく、お湯が冷めないようにそういう構造になっていたのだろう。確か、江戸時代の銭湯もそんな構造になっていたと思う。

 ちょっと、脱線すると銭湯⇒船湯で、江戸時代は、本当に船にお湯を張ったものがあったらしい。それが銭湯の語源だとか…。

 後、お世話になったのは、やまと屋という飲み屋さん。残念ながら卒業をして10年ほどたった頃米沢を訪れたときにはもうなくなっていた。子持ちの女将さんがやっている店で、お金のない僕らは3ヶ月に一度ぐらいしか行けなかったのだが、非常によくしてもらった覚えがある。

 一番最初に寄ったときは、常連さんだと思われるサラリーマンのお客さんがいて、話の相手をしていたら、気に入ってもらったみたいで、「学生さんに一本」とお酒を頼んで頂き、その後はお酒の注文をさせてもらえなかった。

 その頃の米沢の店は、飲み屋以外はすべて夜8時には閉まってしまう。もちろん、コンビニなどはその当時米沢にはなく、夜8時以降に外を出回っている人はほとんどいなくなるのが普通だった。もっとも、冬になると雪が2メートル近く積もるので、外で酔っ払って返ってくるのもたいへんだったから、みんな自分家で酒を飲むのが普通だったのだろう。

 やまと屋の話に戻ると、僕らは、金もないし、他にすることがないので、たいがい店が閉まる11時頃まで居座っていた。

 すると、最後に日本酒がなみなみとつがれた湯飲み茶碗が目の前に置かれる。ここからが、女将さんタイム。子供にどうやって勉強させればいいのかなど色々と普段一人で解決できない相談毎を僕たちにしてくる。女将さんにすれば、学生風情に相談しても解決しないのはわかっているのだが、他に愚痴をいう相手もいかったので、ちょうどよかったんだろう。在学中は本当にお世話になった。

 今でもそうなのだが、僕はホヤが食べられない。なぜかあの磯の香りを味わうと、海辺の岩場にいるときに見かけるフナムシを思い出してしまい、受けつけなくなってしまうのだ。女将さんが新鮮じゃないからそうなるんだといって、わざわざ新鮮なホヤを見つけてきてくれたけれど、結局食べられなかった。

 ここで、この頃(1980年)のお酒事情を少し。東北では、まだ焼酎というものが普及していなかった。店で飲むのは、ビールか日本酒というのが一般的だった。在学中にサントリーの樹氷がヒットし、米沢でも焼酎が飲めるようになったが、当初は酒屋さんで焼酎というと、芋焼酎の白波しかなかった。一度、その安さから白波を一升瓶で買ったことがあったが、あまりの匂いに一ヶ月経ってもほとんど減らなかったことを覚えている。当時の白波は今の白波よりもかなり匂いが強かった気がする。
 間借りに引っ越してすぐ、大家さんが歓迎会を開いてくれた。このとき、ヤカンに直接日本酒を入れてストーブにかけ、燗するのを初めて見た。燗が冷めてしまうとまずくなるので、飲むペースが速く、すぐにつぶれてしまったことだけ覚えている。

つづく

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