ものがたり性 つづき

 昨日の話の続きです。水野さんは、「人間というのは技術がその時点での限界まで進歩すると、ノスタルジックな思いに身を寄せ、美しいものを求める傾向にある。」と書かれています。

 インターネットが急速に普及し、携帯電話からスマートフォンへと代わり、通信できるコンピュータを気軽に持ち歩けるようになった現在は、一時的な技術の限界点に近づきつつあります。そういった環境になると、人は、美しいものを欲しがるようになるというのです。

 また、「『美しい』という感情は基本的に未来ではなく過去に根ざしている。」とも言います。つまり、過去の経験と照らし合わせて、それが『美しい』かどうかを判断するのです。

 ここで、『美しい』とは何なのか、というはなしになります。

 感覚とは、知識の集合体です。その書体を「美しいな」と感じる背景には、これまで僕が美しいと思ってきた、ありとあらゆるものたちがあります。
 美しいと感じた体験の集積が、僕の中の「普通」という定義になっているのです。
 それは、僕個人のものであると同時に、社会知でもあります。何を美しいと感じるかは、人種、時代、性別など、自分の所属でかなりの部分が決定されているのですから。

 そう、『美しい』という感覚は、個人の感覚ですが、社会知でもあるのです。そう考えると、人類が延々と築いてきた文化の中に、共通する『美しい』という感覚があって、その集積が、世の中で一般的に言われている『普通』を生み出しているのかもしれません。

 そして、そこからちょっとだけいい方にずれたものが、『美しい』ものとして、世の中に受け入れられるのだと思います。

 あまりにもずれすぎていると、何が何だかわからず、注目も浴びない結果になりかねません。なぜなら、他人の評価にゆだねる方もいると思いますが、基本的に、誰もが自分の経験や記憶をもとにして、それをいいと思うかどうかを決めているからです。

 業界紙の去年の新春号に「2020年を目指してともに頑張りましょう!」みたいな内容の広告を打ちました。去年の9月に2020年に東京オリンピックの開催が決定し、誰もが2020年という年が何の年だか知っていたからです。今年も同じ内容の広告をデザインを代えて載せる予定です。

 ところが、2020年の意味を明確にしてほしいと上から言われました。オリンピックイヤーであるとうたえ、というのです。考えてみると、決定から1年半が過ぎた今では、2020年だけではインパクトに欠けるかもしれません。しかも、今年秋の話題として、2020年には、はやぶさ2号が舞い戻ってくる予定になりました。従って、人によっては、はなぶさの帰還を想像するかもしれません。

 このように、人が感じる感覚は、その時その時で刻々と変化していきます。その時点で何が最適化なのかを判断する必要があるのです。

 商品や広告の場合、こういったマイナーチェンジができます。しかし、作品の場合は、そうもいきません。そういう意味では、センスには、一歩先を読む目も必要なのかもしれません。

 こんなはなしを聞いたことがあります。昭和のころのドラマを現代に当てはめてリニューアルする場合、通信関係のインフラがかなり異なるので、苦労するのだそうです。

 ただ、伝えたい本質は、変わらないので、細々した部分の修正で済むらしいです。そう考えると、作品に込められた伝いたい本質とは、過去に重きを置いて自分自身で身につけたセンスによって、生み出されるものなのかもしれません。

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水野学著「センスは知識からはじめる」(朝日新聞出版)

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