時代による感覚のずれ

 最近、歴史ドラマを見ていると、その時代の人たちが、常識として持っていた感覚からはどう考えても違う現代の感覚を主人公に当てはめているケースが増えているように感じています。

 例えば、戦国時代、人が人を殺して領土を奪うという時代の人たちの間には、今の日本とはまったく違った生への感覚があったはずです。

 イスラム国の人たちのように、自分たちの国を作るためには、人の命を平気で奪うという感覚は、今の日本人にはなく、その非道は逆に許しがたいものだと感じます。しかし、戦国の人たちが彼らの行いを見たとしたら、今の日本人と同じ感覚で彼らの行動を非難したでしょうか?そこには、また違った見方があったはずです。

 逆の見方をすれば、現代において、20世紀前半に途絶えた過去にあったシステムを過去の方法で実現しようとしているイスラム国は、現在のルールに則らない無謀な集団であると位置づけられます。

 その時代のルールや背景を無視して、自由に国をつくるということを世界は認めていません。彼らこそ、現代の感覚からずれているのです。

 戻って、歴史ドラマです。去年放送された大河ドラマの「軍師官兵衛」を見ていて、かなり違和感を感じていました。官兵衛は、軍師です。人の命を奪うことに躊躇していたのでは、仕事になりません。おそらく、自国の兵士をいかに失わないようにして、敵地を奪えるかを考えて行動していたのでしょう。

 守りたかったのは自国の兵士たちだけだったと思われます。しかし、ドラマでは、人を殺さずにいかに領土をとるかを考えていたかのように表現されていました。この感覚は、明らかにこの時代の感覚とずれています。

 ドラマは、いかに視聴者に共感してもらえるかがポイントなのは、わかります。しかし、あまりに時代背景を無視して、そこを進めてしまうとやっぱり違和感を感じてしまいます。

 なんで、こんな事を思ったのかというと、次に連載予定の人間の進化を調べていると、その時代の背景が人間の進化を考える上で、大きな影響を与えることが多々あったからです。

 例えば、自然選択による進化を初めて主張したチャールズ・ダーウィンが初めて、フエゴ人にあったときの衝撃は、その時代でなければ感じ取れなかった感性だったと思われます。そして、そこから人間が動物にいかに近い存在なのかを意識します。

 次回、連載は、この話からスタートする予定です。そんなこんなで、今回は調べている最中に思ったことを書いてみました。つまらなくて申し訳ありません。

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