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2冊目の週刊誌と風評被害

早野龍五・糸井重里著『知ろうとすること』(新潮文庫)の本の中で、糸井さんが、売り場に積み上げて置かれている週刊誌を買うときに、上から2冊目の週刊誌をなぜか取ってしまうことと、風評被害を受け入れてしまう行為が似ていると仰っていて、なるほどなぁと思ってしまった。

 一番上にある週刊誌が特に汚れているわけでもないのに、なぜか2冊目の週刊誌を取ってしまう。それは、おそらく、何人もの知らない人が触っているかもしれない。なんか汚れているような感じがする。だから、2冊目にしよう。という何の根拠もない「なんとなくいやだな」という感情によるもので、誰もがそういう感情を持っている。僕自身、本を選ぶときに、普通にやっている行為だ。

 かたや福島産と福島産以外の野菜があったときに、なんとなく、「科学的には福島産でも大丈夫だろうけど、まぁ、違う方を買っておこう」というような行動をとってしまう。こうした行動が風評被害に繋がっていくのだが、こちらも、「なんとなくいやだな」という感情に左右されているので、2冊目の週刊誌を取るのと似ているというのだ。

 2冊目を取ってしまう自分は、風評被害や差別につながりそうなことをやらかしてしまう可能性があることを自覚して、行動を取るべきだと糸井さんは、主張している。そして、大切な判断をするときは、「汚れていないなら一番上の本を買う」という行動を取りたいと思っていると述べている。

 「なんとなくいやだな」という感情は、あちらこちらで顔を出しているような気がする。この間、地下鉄のエスカレーターの手すりベルトに『抗菌』という大きな文字と『しっかりとベルトにお掴まりください』という文章が印刷されてあった。人が少ないときならいいが、通勤ラッシュなどの人が多いときに手すりベルトを掴んでいない人がたくさんいると、なにかの弾みで将棋倒しがおき、大事故に繋がりかねない。だから、ベルトをしっかり掴んで下さいねっていっているのだが、その危険性よりも、「なんとなくいやだな」が勝ってしまい、掴まない人が多いのだと思う。

 「汚れていませんよ」という意味で『抗菌』と書かれているのだが、それでも掴まない人は多いのだろうと思う。ここに二つ目の問題がある。「なんとなく」に科学的なデータを示して問題ないですよといっても、一度不安を持ってしまった人には通用しないということだ。一度芽吹いた不安を取り除くためには、安心を感じさせるなにかが必要で、それは、科学的なデータだけでは、難しいのだと思う。それ以外の何が必要なのだろう。

 原発事故の被害を受けた福島の人々の半数が、何らかの影響が子孫に残ると感じてる。科学的に信用できるデータを示して、問題ないですよと専門家が伝えても、当事者たちの不安は取り除けないらしい。

 糸井さんは、一度不安を持ってしまった人の「なんとなく」に勝てるのは、たくさんの第三者(福島の問題なら福島以外に住んでいる私たち)が科学的データと専門家の意見を冷静に判断し、その結果として不安を持っている人たちに対して「大丈夫だよ。安心していいよ」と投げかけることじゃないかとも述べている。

 そう、人が人を安心させるためには、科学的データによる裏付けだけじゃなく、何よりも大多数の人たちによる「なんとなく」を取り除ける「大丈夫だよ。安心して」という投げかけが必要なのかもしれない。

「東日本大震災から3年経ったからこそ、知っておくべきことがあるんじゃないだろうか…」

早野龍五・糸井重里著『知ろうとすること』(新潮文庫)
  http://urx.nu/d295

今だからこそ、読んでおくべき本だと思います。

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