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大学時代の思い出(6)

 今回は、寮での自炊事情について思い出してみたい。アルミ製の片手鍋を買ったことは以前書いたが、この片手鍋が主役になる。何しろ炒め物以外は、全てこの片手鍋で料理していたのだ。

 家にいた頃は、自分で作るのは夜食で食べるインスタントラーメンぐらい。中学生の頃、山に何度か行っていたので、ご飯をコッフェルで炊くけることは覚えていた。

 そこで、片手鍋でご飯が炊けないか考えてみる。姿形こそ違うがアルミの片手鍋もコッフェルと同じ素材だ。炊けないはずがない。

 まず、蓋の取っ手部分がねじ式になっていたので取り外す。これで沸騰時の空気穴ができあがった。あとは、蓋が簡単に動くのを防ぐために、道端に落ちていた石ころを二つほど取ってきて、流しで洗い一度火で炙って殺菌し準備する。石ころはなるべく動きづらい形のものを用意する。これで、圧力鍋の完成。

 あとは、お米を研いで必要な分量の水を入れ蓋をし、その上に石ころを置き、火にかける。お湯が沸騰したところで弱火にして、数分炊いたあと余熱でご飯を蒸して出来上がり。お焦げのできたおいしいご飯が炊きあがる。

 部屋に台所は当然ないので、洗面所脇に置いてあるガスコンロで料理を作り、部屋に持ち帰る。流しには、共同の包丁とまな板があり、年季の入ったフライパンも置いてあった。

 寮の部屋には、押し入れとベッド、そして机が備え付けられていた。それ以外のものは、自分で購入しなければならない。家からは携帯ラジオしか持ってこなかった。そのため、一番最初にバイト代で買ったのはカセットデッキとヘッドホンだった。

 おかずは、スーパーで買い置きしてあった鯖缶がメインだった。その当時(1979年)、一缶50円だった。最初のうちは、鯖の味噌缶を食べていたが、だんだん味に飽きて、味を変えられる水煮に変更した。

 この間テレビを見ていたら、山形県は鯖缶の消費量第1位で太った人が一番少ない県だと言っていたが、この時期そんなことはまったく知らなかった。ただただ、鯖缶が安かったのだ。

 部屋替えのあと、仕送りを使い込み、どうにも食費が捻出できない時期があった。同部屋の相棒と打ち合わせた結果、まず、炊夫さんにお米を分けて欲しいとお願いにいったが、丁重に断られた。食費を払っている寮生全員のお米だ。食費を払っていない我々が分けてもらえるはずがない。そこで、お互いの親にSOSを送ることになった。

 届いたのは、お金ではなく、相棒方がインスタントラーメン一箱で、うちの親から届いたのは素麺一箱だった。親の方が一枚上手だった。

 若かったので、最初油分の多いラーメンを好んで二人して食べた。しかし、二週間もすると身体中に発疹が出てきた。インスタントラーメンを毎日食べ続けていると身体にあまり良くないことにこの時初めて気づかされた。そのあと、素麺とラーメンを交互に食べるようにしてその月を何とか二人して乗り切った。

 野菜は、何でも炒めれば食べれるのだと思っていた。そこで、寮のフライパンを使って野菜炒めを何度も作った。ところがジャガイモをおおざっぱに切り分けそれを炒めたところ、いつまで経っても硬くて、柔らかくならない。意地になって、ジャガイモを薄く切って、なおかつさいの目のような大きさにして炒めたら何とか食べることができた。

 あとになって、煮物にすればすんなりジャガイモは食べられることに気づいた。そう、肉じゃがにすればよかったのだ。

 牛肉は、高すぎて買えなかった。そこで豚肉か鶏肉を買って食べることになる。ある日、スーパーで、牛のすじ肉が百グラム50円で売っていた。おお、牛肉だと叫び、これを買って、根気よくフライパンで炒めてみたところ、それなりにうまく食べることができた。

 数日後、今度は豚肉のすじ肉が百グラム20円で売っているのを見つけた。牛肉のすじ肉が食べられたのだから豚肉のすじ肉も食べられるだろうと思って購入、実際にフライパンで炒めたてみたけど、どんなに炒めても硬くて食べられなかった。この豚肉のすじ肉はクロの餌となった。

 今思えば、料理するというよりも、ただ炒めるだけが料理だった気がする。ちゃんと作ったのは、インスタントルーを使ったカレーライスぐらい。玉ねぎを弱火でじっくりきつね色になるまで炒め、そのあと肉と追加の玉ねぎを入れもう一度炒め、水を入れて沸騰させ、20分ぐらいしたら火を止め、ルーを加える。時間はかかるが工夫も何もない料理だった。ただ、カレーのルーはなぜかジャワカレーの辛口と決まっていた。

つづく

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