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大学時代の思い出(19)

 大学時代に車を3台乗り換えている。2台目のランサーは、金額が30万以上したため、寮時代の友達と二人で共同購入した。ところが、この車を僕がひっくり返してしまい廃車にしてしまった。最終的に、支払いは全て自分が受け持つことになってしまった。今回はその時の話。

 自動車部の練習といっても、ほとんどが山の中にある舗装されていない林道を走ることなんだが、当然対向車が来る確率が低い、夜中に走ることになる。

 時々、パトロール中のパトカーと出会うことがあるが、パトカーは僕らを取り締まるために巡回しているわけではなく、自殺願望者などの不審者がいないかを山林でチェックしているのだそうだ。

 この日も林道の入口から出口までを自動車部の仲間数台で走ることになっていて、一台目が走り始めたあと、数分してから2番目の僕が走る。そのあとに時間を少し空けて、次の車が走ることになっていた。

 林道の途中までは、順調に走っていたのだが、ヘアピンカーブを抜けて、緩くカーブする所を抜け、沢を渡る短い橋に差しかかる手前で、端が凍っていることに気づき、ブレーキをかけた。しかし、スピードが出ていた上にドリフトしている状態だったため、そのまま車がスピンし、林道から橋の手前で外れてしまった。そのまま沢の方へ滑り。車は横回転して天井部分を下にした状態で止まった。

 シートベルトをしていたのと、車が横回転するスピードがゆっくりだったので、なんとか天井に手をつき、逆さまになった状態で身体を支えることができた。もがきながらシートベルトをはずし、きれいに割れてしまったフロントガラスから車の外に出る。事故ったことを仲間に知らせないとと思い、林道に出て、後から来る車に手を振った。

 ところがである。何を思ったか後続の車は、止まりもせず、逆にスピードを上げて通り過ぎて行ってしまった。「なんでだよ」と心の中で毒づきながら、これからどうしようと考えた。歩いて町まで帰るとしてら、途中で朝を迎えるぐらいの距離がある。途方に暮れていたところ、先程、止まらずに通り過ぎていった仲間の車が戻って来てくれた。

 「どうして止まってくれなかったのか」聞くと、熊が出たと勘違いしたとの返答。確かにすんぐむっくりしているが、熊はないだろうと思った。林道の最後まで走ったら、僕の車がいないことに気づき、ようやくあれが僕だったのだと気づいたらしい。まあ、どんな理由であれ戻って来てくれたので、本当に助かった。

 自動車部でこうした事故を起こした場合、自分たちで引き上げることができるのであれば、人海戦術で何とかする。ところが、今回のように沢に車が逆さまになった状態で落ちてしまうと、人海戦術ではどうしようもない。そこで、JAFを呼ぶことになる。

 自動車部でJAFに入っているのは、親の職業が医者であるT弁しかいない。T弁というのはあだ名で、甲子園で有名だった彼の出身校がそのままあだ名になっていた。

 事故を起こしたとき、自動車部員は、みなT弁を名乗ることになる。もちろん、T弁本人も事故現場には駆けつけてくれる。会員証を見せなければならないからだ。

 呼ばれるJAFの人は、米沢には1人しかいない。毎回レッカー車で救助に来てくれる。自動車部が年に一度くらいしかJAFを呼んでなければ、毎回T弁と名乗っても問題ないのかもしれないが、この月はすでに一度JAFの人を呼んでいた。どう考えてもおかしいとJAFの人も思っているだろうが、深夜でもあり、車をあげなければどうしようもない状況なので、何も言わずに車をあげる作業を行ってくれた。

 フロントガラスが割れた車は自走できた。風がビュンビュン入ってくる車を走らせながら、これからのことを考えると泪が出てきた

 後日、修理工場に車を持ち込んで修理を依頼したら、一度ひっくり返った車は、天井部分の強度が弱くなっていて、同じようにひっくり返ったら、必ずぺしゃんこになると言われた。しかたなく、廃車することにした。

 その後、車がないのに車のローンを払い続ける日々が待っていた。

つづく

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