ひとはどんなときに命が有限だと実感するのだろうか?

今後、このテーマで、主人公を変えて何パターンか文章を作っていきたいと思っています。一回目は、ほぼ実体験でフィクション性が貧しいものになっています。

渡瀬徹(わたせとおる)53才 その二

 まず、1ヶ月も意識を失っていると当然のことながら、体がまったく動かなくなる。手も足もピクリとも動かない。筋肉が完全に落ちてしまっているのだ。
 しかし、筋肉の問題は、リハビリを始めると徐々に動かせる箇所がふえ、開始して一週間ほどで、一人でトイレまで辿り着くことができるまでに回復した。最後に残ったのは、ひねるという動作。顔を洗おうと洗面所まで行き、蛇口をひねろうとしたら、「ひねる」という動作ができなかった。この問題は、集中的に手首をひねるリハビリをして一日で解決することができた。余談だが当時に比べて、ひねる蛇口というのは、かなり少なくなった気がする。
 無菌性髄膜炎というのは、背骨の中を通る髄液に何らかが原因で炎症がおきる病気で、やたらと白血球が増える病気だと説明された。髄液が炎症を起こせば、髄液圧が上がり脳が圧迫され、脳のどこかに損傷ができるらしい。当初、担当医に言われたのは、下半身悪ければ全身麻痺の可能性もあるというものだった。
 最終的には、手足にしびれが残ったものの、幸いにもリハビリを行うことで体の方は快方に向かっていった。
 問題は脳だった。どこがどうダメージを受けているかがわからない。これは、後で知ることになるのだが、意識が戻った当時、見舞いに来てくれた方々に、意味の分からない支離滅裂な話をしていたらしい。らしいというのは、本人はまったく覚えていないからだ。

 ある日、見舞いでもらったマンガ本を読んでいたら、あることに気づいた。1ページを読み、さらに2ページ目へと移り、さらにページをめくって次のページに移る。ここで、ハタと考えた。
「1ページ目に何が書いてあったっけ?」
 記憶を辿ってみても思い出せない。そこで、また1ページ目に戻ってみる。
「えっ!」
 そこには、読んだことのないマンガがあった。さっき読んだ内容をまったく覚えていないのだ。当然のことながら、2パージ目も、3ページ目も読んだことがないマンガがそこにあった。
 小川洋子さんの小説で「博士の愛した数式」(新潮文庫)という小説がある。この小説に登場する老数学者は、80分で記憶が無くなってしまうという設定になっている。僕の場合、80分どころか数分で記憶を無くしていることになる。そのことに気づいたのだ。
(さて、どうしたものか?)
不思議なことに、自分で考えていることはある程度、記憶に残っている。ところが、目や耳から入ってきた情報が記憶されていない。
(ということは、五感から得た情報を記憶できていない?)
 訓練すればなおる問題なのかそれとも障害によるものなのか判然としない。振り返ってみると、格子模様を見ると気持ち悪くなる傾向がある。また、人の名前や数値が即座に覚えられない。やはり、五感からの情報を記憶できないか、処理できないかのどっちかだ。
(ここは、訓練するしかないだろう)
 障害であっても、一時的な現象であっても訓練してよい方向に持っていくしか方法はないと感じた。そして、その日以降、メモ魔に変身することになる。ただ、それには、もう一つの問題があった。手のしびれと、リハビリで動くようになったといっても細かい動作が苦手なため、「字を書く」という動作がうまくできないのだ。
 現代は、モバイル製品がたくさん市販されているので、「字を書く」以外にも、メモをとる方法があるが、1990年の時点では、選択肢は非常に少なかった。今とは性能的にかなり劣るものの、その頃数少ないノートパソコンであったNEC製のPC-9801Nを駆使することになる。

 入院してから3ヶ月後に退院することができたが、記憶は曖昧のまま。仕事には復帰するが、その後一年間は、毎日のように怒られながら仕事をこなしていく日々が続いた。

 このときの経験から学んだことがある。脳は、生命維持が困難な場面に直面すると、勝手にフェードアウトしていまうこと、つまり、気を失ってしまうということだ。飛び降り自殺するひとが、地面にぶつかるだいぶ前にすでに記憶をなくしているという話も本当に思えてくる。実際に試したいとは思わないが……。
 また、自分が信じて疑うことがなかった記憶力もしくは記憶という機能は、簡単に失われるてしまうということ。脳にダメージを受けると、自分という存在が簡単になくなってしまうことを嫌でも理解するしかなかった。よく、魂は永遠だというひとがいるが、こういう経験をすれば、自分たちの記憶がどんなにはかないものなのかがわかると思う。ただし、そのために無菌性髄膜炎にかかるというのは本末転倒ではあるが……。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?