心の声
「心はどこにあるの?」と聞かれたら、あなたなら何処を指しますか。たいがいの人は、心臓の当たり、つまり胸の中心当たりを指すのではないでしょうか。
冷静に考えれば、脳で考えているのだから、脳を指すべきなのかもしれませんが、子どものころからの習慣でおそらく胸の中心当たりを指してしまいます。
どうして、そんなことを考えたのかといいますと、宮下奈都さんの小説を読んでいて、なんでこんなに読みやすいのだろうと考えていたら、「心」という言葉が頭に浮かんだからです。
宮下さんの文章は、主人公が声に出すことのない心の声をメインにして記述されています。たとえば、こんな感じです。
帰り道を歩く足が止まった。じゃあこれまでの人生はどんな女の人生だったんだ?振り返って目を凝らしても、私の人生なんて見えてこない。讓さんがいなくなって輝きを失ったのではない。はじめからそこには何もなかった。くすんだ商店街の向こうに、ちかちか光るネオンが見える。どうせなら、くすんだ人生よりちかちか光るほうがよかったかなあと思う。あの光が、通りを隔てた向こうのパチンコ屋のネオンだとしても。その場違いなネオンが、暮れかけた商店街を明るく照らしている。ぼんやりしていた鼓膜に不意に流行の音楽がなだれ込んで来る。パチンコ屋から流れる歌だ。耳の中に詰めていた綿がぽろっとこぼれた感じだった。
パチンコをやってみよう、そうひらめいた。そうだ、そうだ、そうだった。ずっと前から一度パチンコをやってみたいと思っていたのだ。ひとりでは入りづらくて、かといって誰かを誘うのもなんだし、なかなか機会がなかった。ひょっとすると今がそのときなのかもしれない。
文章のほとんどが、声を出して行う会話ではなくて、事実・動作の記述と声に出さない心の声で構成されています。
「帰り道を歩く足が止まった。」は、事実・動作の記述です。そして、その後につづく、「じゃあこれまでの人生はどんな女の人生だったんだ?」が主人公の心の声。そして、その後、延々と心の声が続きます。
このように、おそらくぼくらも、喋っているよりは、心の中で考えをめぐらしている方が多いはずです。それなのに、たいがいの小説は事実と会話で構成されていて、場面場面で、その時主人公は、こう思った、あるいは、考えたと区切り、心の中の考えを伝えるやり方をしています。ところが、宮下さんの文章は、心の声が中心で事実と会話が補佐に近い扱いになっています。だから、すーっと文章が入ってくるのだと思います。
たいていの人は、心の中で、声に出さないで考えたり、つぶやいたりして試行錯誤している時間の方が、声に出して話しているよりも圧倒的に多いはずです。だからこそ、他人のことがわからないのです。
三浦しをんさんの「舟を編む」という作品で、主人公の馬締が、「他人がわからない」と大家のおばあちゃんに打ち明けるシーンがあります。それに対して、大家のおばあちゃんが、「当たり前だろう。わからないから、人と話すんじゃないか」と返します。
しかし、話し合ったからといって、その人の心の声の一部が垣間見えるだけで、ほとんどの部分は伝わってきません。それを感じるためには、会話だけでなく、多くの時間を共有していくことが大切なような気がします。
ところで、この心の声、一般的にはなんて言われているんでしょうか?当てはまる言葉が思いつかないのですが、知っている方、教えて下さい。
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