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書くということ

 小説家の姫野カオルコさんが、トーキング松尾堂の中で、「書くこと以外で、人並みに出来ることがない」みたいな発言をされていた。だから小説家しかできないと。

 姫野さんのように才能がないので、小説家にはなれなかったが、僕も、喋るよりも書く方がいいタイプの人間だ。こう書くと小説家を目指したことがあるようなふうに思われるかもしれないが、子どもの頃、なれたらいいなぁと思ったことはあったが、目指したことは一度もない。

 話がそれた。会話中の話題や意見に、的確に反応して、自分の考え方を即座に返すことが苦手なのだ。特に、自分の考え方をまとめるのに時間がかかる。そのため、その話題、一回持ち帰って日を改めて回答したいと思うことがしばしばある。

 noteを見ていても、内容を理解して自分の考えをまとめるのに時間がかかりすぎて、コメントをつけられないことがしばしばある。そうこうしているうちに他の人のコメントがたくさんついて、それを読んでいると自分の考え方に近い人のコメントもあったりして、「まぁ、いいかぁ」となって、コメントすること自体を諦めてしまう。

 どうしてそうなのだろうと考えたとき、「やっぱり引き出しが少ないのだ」ということにたどり着いた。

 もともと、子どもの頃から覚えるということが苦手だった。できれば、覚えることは少ない方がよい。そう思って、理系に進んだ。理系でも化学はだめだった。覚えることが多すぎる。数学や物理なら定理さえ覚えればあとは、覚えなくてもいい。そう思ったのだ。だから工学部でも物理系に進んだ。

 こんなんだから、語学はまったく駄目だし、歴史なども疎い。おそらく普通の人が記憶している量の半分も覚えていないだろうと思う。

 それでは、どうやって記憶力を補ってきたかというと、パソコンがなかった頃は、自分専用のノートであり、手帖だった。そして、それを常日頃から持ち歩く。そうやって、学校でも仕事場でも記憶力を補ってやってきた。

 30歳の時に、大病を患い、手のしびれが残ってしまい、字が思うように書けなくなったときは、唖然とした。書くスピードが人の十倍ぐらい遅くなってしまったのだ。

 ところが、そんな時期にノートパソコンなるものが出まわり始めた。まだ、すごく重く、フロッピーディスクにしか保存が出来なかったが、キーボードを利用して文字が入力できて、しかも持ち運べる。

 その日から、ノートパソコンが必須の道具となり、ノートや手帖の代わりとなった。この時以来、書くための道具としてのノートパソコンや電子手帳に固執するようになった。少しでも軽いもの、入力や検索がラクに出来るものを探し、何台も買い換えてきた。

 そして、今は、iPadやiPhoneを使って、Evernoteをノート代わりに使っている。そして、Evernoteに保存したネタをもとにEvernoteに記事を書き、何日かかけてその内容をチェックした後、noteにテキストをアップしている。

 未だに道具を使わず、会話中に即座に返答することは苦手だ。だから、時間をかけて考え、書く方がずっと楽でいい。

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