見出し画像

大学時代の思い出(10)

 大学2年のとき、同じ間借りに住む化学工学部の同級生と彼の部屋で酒を飲んでいた。この同級生Tは、山形市出身。同じく山形出身で同じ繊維高分子工学科の同級生Sも部屋にいたと思う。いつもは、1階の入口に住んでいる1級上の先輩S先輩の部屋が飲み部屋になるのだが、なぜかその日は、Tの部屋が飲み部屋だった。

 酒を飲んでいると、だんだん気が大きくなって、Tと学生時代でしかできないことをやろうということになった。とはいってもお金がない二人にできることはそんなになく、先輩の車を借りて東北一周旅行を夏休みにやることになった。

 まずは、資金集め。夏休みまでにバイトでお互い2万ずつ集めることになった。その頃、ぼくは焼き肉屋でバイトをしていた。店は、米沢市の繁華街といってもさほど大きくない商店街の中にあった。米沢は、城下町であり、繁華街は、駅から最上川を渡った先にあった。

 バイトのオーナーは、在日の韓国人夫婦で、奥さんの実家は、近くにあるパチンコ屋さんだった。

 このパチンコ屋さん、今は無き手打ちの台があり、しかも玉をひとつひとつ指でつまんでパチンコ台に入れていくタイプだった。その当時、パチンコというものを知らなかったので、興味本位で一二度試しただけだったが、打ち続けているうちに手首が痛くなったことを覚えている。

 パチンコ台の右端中央にある穴から玉を左手で入れる。そして、右下にあるレバーのようなものを右手ではじいてパチンコ台の点釘まで玉を送る。落ちていく玉がチューリップに入るとチューリップが開き、玉が十数個出てくる。開いたチューリップにまた玉が入ると今度はチューリップが閉じて、また玉が十数個出てくる。それを拾いまた、1個づつ玉を入れていくのだから、手首が痛くなるのも当たり前だと思った。

 当時は、既にハンドルを回せば玉が自動に出る台が主流になっていて、羽台と呼ばれるプロペラ機の羽を模したものが台の中央にあり、ある場所に入ると羽が何度も開いたり閉じたりして、玉を吸い込んでいき、大量に玉が出てくる台がメインだった。スリーセブンと言われるルーレットが回って数値が揃うと大量に玉がでるタイプは登場したばかりで、すべての店にあるわけではなかった。

 焼き肉屋をバイトとして選んだ理由は、不純な物だった。どうにか牛肉にありつきたかったのだ。時給は400円だった。店は高級店だったので、客層は医者や社長といった富裕層が多かった。しかし、店の賄いは実に質素。おかずは卵焼きぐらいで、それにご飯とスープがつく。1週間に一度だけ、ホルモンを食べさせてくれることはあったが、牛肉が出でくることは無かった。もっとも、お盆の時期に手伝ったときにだけ、カルビーを食べさせてもらった。

 バイトで辛かったのは、センマイむき。牛の胃袋を湯通ししたものから外側の灰色の部分をむく作業。むくにはコツがあってなかなかきれいにむけない。むいていると、いらいらしてくるので精神的に良くない。

 なによりむいた後、その臭いが、どうにもとれないのだ。お店が始まれば接客もしなければならないので、臭いを早く取りたいのだが、石けんを使って何度洗っても臭いが残る。あまりいいイメージのないセンマイは、今でも食べたいとは思わない。こうして、焼き肉屋でバイトすることで、どうにか旅行費用2万円は確保できた。

 東北一周旅行のために借りることになった先輩の車は、トヨタ初期型のセリカだった。車高が低く、社内に乗ると寝た状態のようになる。おまけに先輩が土足厳禁にしていたので、乗る度に靴を脱ぎ、サンダルに履き替えなければならなかった。かなりの年季もので10年近く経っている感じだった。内装の天井など今にも落ちてきそうだった。

 旅行は、米沢から北上し、山形を超え、秋田に入り秋田から青森へ移動し、太平洋側を岩手、宮城と下り、最後に福島を通って、米沢に戻る計画だった。

 そして、旅行の最後に米沢名物である米沢牛のステーキを食べて終了する。従って、最後、米沢に戻ってきた時点で旅費を3000円は残しておく予定でいた。米沢に住んでいるのだから、名物の米沢牛を一度ぐらい食べてみたいと思っていた。

 そのため、最後に米沢牛を食べるために、宿泊は車中で、食事も各県にある駅弁大学の食堂を利用することにした。工程は1週間強で設定した。

つづく

 エッセイ集 目次


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?