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【長文】出会って20年(音楽との出会い編)

僕には、中学生の頃からずっと隣にいてくれる木村マサヒデくんという友達がいるんですけど、お互い12歳、13歳の頃からなんやかんやありながら、今日も仲良く音楽を一緒にやっていて、そんな木村くんとの出会いを前編に書きました。この記事はそのつづきです。

今回は音楽を始めた頃のことを少し振り返ります。

具体的な時系列になっていくので、書き方が少し変わりますが、よかったら読み進めていってみてくださいませませ。

野球部で出会った2人は、学生生活を謳歌させていくわけだが、中学2年の春。テレビでハモネプというものに出会う。僕も木村くんも「昨日のテレビ観た!?ボイパすごかったよね!!」と、朝一番に話した。学校でも話題は持ちきりだった。

このとき、音楽、アカペラというものに、2人とも心を奪われたのだ。

そして、思い立ったが吉日、すぐに野球部、バスケ部、サッカー部を集めて、UP RIGHTというアカペラグループを結成した。

部活は部活で一生懸命取り組みながら、休み時間になるとトイレに集まってアカペラの練習をして、音楽で遊ぶようになった。

部活がない休みの日は木村くんと2人で約5時間カラオケに閉じこもって、EXILEさんとCHEMISTRYさんの曲を永遠と歌うという日々を送る。

振り返ると、中学時代は、野球と音楽漬けの毎日だった。

でも、僕らの学校にはバンド活動やアカペラを勉強するような部活、いわゆる軽音楽部というようなものもなかった。そして、そもそも音楽という文化があまりなく、披露する場もなかった。

遊びの延長だったアカペラだったが、やはり学生時代の吸収力や探究心というものはすごい。

好きなものにはとことんハマっていった。部活でもないし、発表の場もないのに、目的もなく、毎日毎日集まって楽しく練習をしていた。どんどんコツを掴んでいき、成長している実感があって、たまらなく楽しかった。

練習を頑張っている姿は、学校の中で徐々に噂になり、広がっていって、(トイレで大きな声で歌っていれば、そりゃ広がる)その噂を聞いた「鴨T」と呼ばれる僕の担任の先生が、声をかけてくれた。

僕らの学校の文化祭(中高一貫校だったので文化祭は中高(約2000人)で一緒に行っていた)では、高校のクラスか、部活でないと発表はできない決まりがあったのだが、「鴨T」は存在しない部活の顧問の先生として手をあげてくれて、文化祭で僕らの歌を披露できるように学校に話をしてくれた。

そして、僕らは坊主が2人(K.K.)いるアカペラグループとして2000人の全校生徒の前で歌を披露することになるのだ。

初めてのステージは体育館の大きなステージだった。ステージにあがった時、不思議と緊張はあまりしなかった。

体育館がざわついている中、マイクを手に取り、歌い始めると、生徒のみんなは一気に静かになった。

メインボーカルは、僕で、木村くんはコーラスだった。ちなみにベースを担当していたのは、のちに、Play.Gooseの「海賊旗」という楽曲をアレンジしてくれることとなる中野領太くん(天才ヒットメーカー)である。

僕は練習のしすぎで、声が枯れてしまっていて、ポケットには、のどぬーるスプレーが入っていた。たしか歌っていた曲はベン・E・キングの「スタンドバイミー」だった。

「ボンボンボボボン」というベース音から始まるこの「スタンドバイミー」は、まるで僕らの青春を象徴するような歌だった。

本番は、思ったよりも声がよく出た。声の枯れはどこかに吹き飛んでいたようだった。アドレナリンの凄さを知った瞬間でもあった。

ワンフレーズワンフレーズ歌うたびに、楽しくて楽しくて、あっという間に曲は終わった。

歌い終わったあと、体育館の空気は映画のワンシーンみたいに一瞬止まったのを覚えている。

そして、そのあと、びっくりするぐらいの拍手喝采を浴びた。人生で味わったことのない感情になった。この時はこの感情が何なのかまったく言語化できる感じではなかった。でもとにかくうれしかった。

そんな風に音楽の楽しさを知りながらも、部活は部活で、やめるなんてことは一切なく、順調に野球部のバッテリーとしてがんばっていた。僕は変化球が得意で、ストレートとカーブをメインに試合に登板していた。しかし、その変化球の練習のしすぎて、ある日、肘に違和感を覚えるようになる。

それでも、エースとして、3年間野球部を続けた。整骨院に通いながら、テーピングや治療を続けて、中学野球部の卒業の時までピッチャーとして投げ続けることができた。木村くんは副キャプテンとして、チームをまとめた。

そして、中学卒業のタイミングで、僕はひとつの夢だった高校の野球部に入ることを決める。ここで、木村くんは、学校の先生を目指すために、勉強とピアノに専念するため、高校野球の夢を諦めることとなる。ずっと一緒だった木村くんとの関係がひとつ終わりを迎えた。

そんな寂しさに浸る間もなく、高校の野球部の練習は中学の卒業前から少しずつ始まった。今まで軟式ボールだった中学野球。高校野球では、硬式ボールに変わるため、肘にかかる負担も大きくなっていった。練習をするたびに、肘の違和感はどんどん大きくなっているのを感じていた。

中学の頃は、無敵のように何球でも投げられて、何試合でも登板できるのが僕の強みだったが、ある日を境に、70球ぐらい投げると肘が強烈に痛くなるようになった。

この痛みの理由は、本当はわかってはいたけど、知りたくなかった。

でも、先輩の勧めで、病院に行って正式に診断してもらうことにした。

病名は「野球肘」と呼ばれるものだった。

野球肘というのは、成長期に野球のボールを投げすぎることによって生じる肘の障害のことを言う。 肘を伸ばしたり、曲げたりができなくなったり、急に動かせなくなったりするものだ。

先生にはこのように説明された。

「君はもうピッチャーとして野球を続けるのは難しい。もし100球以上ボールを連続で投げたら、君の肘は壊れて、使い物にならなくなる。生活にも支障が出る。だから野手へと転向したほうがいい」

僕は、絶望した。

小学1年生からの夢だったプロ野球選手という夢が途絶えた瞬間だった。

その翌日だったと思う。

僕は、朝、木村くんといつものように待ち合わせをして、学校に向かう予定だった。横浜駅についてすぐにホームで「野球肘になったこと」、そして、「野手に転向しないといけないこと」、でも「ピッチャーしかやりたくないこと」を淡々と木村くんに話した。

彼は、野球を辞める時、「英語の先生になるのが夢だ」と話していた。

そんな彼が、僕のその話を聞いて、一言目にこう言った。

「秀平がもし野球やめるなら、音楽をやればいいよ。俺はいつでも一緒に音楽をやる準備はできてるよ」

と。

木村くんは先生の夢を諦めるわけではないが、そんな風に一言目で言ってくれる人はなかなかいるもんじゃない。僕はすごくほっとした。野球しかないと思っていた人生だったけど、木村くんがいればなんとかなるかもと思えた。

僕は、すぐに監督のもとに行って、高校野球の夢を諦めることを伝えた。

それから坊主だった僕は木村くんと楽器屋に行って安いギターを買って、ボイトレに通い始める。

そして、僕はボイトレの教室に貼ってあったポスターを見つける。

どこかの事務所の新人アーティスト募集のポスターだ。その募集期間は見つけた日の翌日までだった。思い立ったが吉日だ。僕は以前木村と遊びで録音していた音源を木村くんの許可なく、そのまま送った。

そして、数日後手紙が届く。

合格だった。

それから一次審査、二次審査、三次審査まで合格していった。

そのオーディションは、その後調べたらあのYUIさんを輩出したソニーの新人発掘オーディションだった。

僕は音楽を始めてというかちゃんと始める前にすごいオーディションに応募してしまっていたのだった。

ただ、このオーディションがきっかけで、ソニーの新人発掘の方々に目をつけてもらい、K.K.という名前を授かり、さらにその数年後、僕たちK.K.はPlayYou.Houseのメンバーとして推薦されて、その後、Goose house、現在のPlay.Gooseというグループになっていくわけである。

こう振り返っていくと僕の音楽人生は木村くんに出会った中学生の頃から一度も止まることなく、進んできたんだなと思った。

人生は本当に不思議なものだ。

あのタイミングで僕が肘を壊していなかったら。

あのタイミングで僕が木村くんに野球をやめるか悩んでいることを話さなかったから。

あのタイミングで木村くんが僕に音楽の道を薦めてくれなかったから。

僕はきっと音楽はしていないし、K.K.も存在していないし、Play.Gooseだって存在していないかもしれない。

そう考えると僕は、木村くんにこの道に連れてきてもらっているんだなと思ったりするわけである。

Play.Gooseを立ち上げた時も、0からのスタートだったから、機材からシステムからすべて木村くんが先頭に立って一緒に準備をしてくれた。もうそれから3年が経とうとしている。

9月30日はそんなPlay.Gooseにとって2年ぶりの有観客ライブツアーがあった。

2年ぶりということは2年ライブ活動を休止していたわけだけど、Play.Gooseとして活動が3年だから、1年しかライブ活動したことがないと思うと本当にすごいことだ。ライブ活動していない期間の方が長いと言うことだ。

そして、この2年はただの2年ではない。エンタメが止まった2年だった。僕は、人生で音楽をやめたいと思ったことはない。でもこの2年の間、みんなを守るために、音楽をやめることをリーダーとして一瞬でも考えなかったかと言われれば嘘になる。

そんな2年を越えて、作り上げたステージがこの間の有観客ライブツアーだった。

その最後の曲で、木村くんはfeaturing memberとして僕と一緒にステージにあがってPlay.Gooseのメンバーと共に歌った。

最後の歌詞はこうだった。

必ず見つけ出すよ 君は君を信じて
必ず見つけ出すよ 僕は僕を信じて 
もういいかい もういいよって声を聞かせてよ

これもきっと人生のピンチから僕を何度も救ってくれた木村くんが、また見せてくれた奇跡なんじゃないかなとこっそり思っていたりするのだ。

これが今までの人生のように、良い意味での大きなターニングポイントになるんじゃないかなとも思っている。

文化祭のステージで拍手をもらったときに言語化できなかった気持ちは、今も上手に言語化はできないけど、ひとつ言えるのは、「君はここに立つために生まれてきたんだよ」「君はこの相棒がいれば大丈夫だよ」とそんな風に言ってもらえれているような気持ちになるということだ。

この日の拍手はあの文化祭でもらった拍手を思い出すほど温かいものだった。

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