古泉一樹が好きだという話

 古泉一樹が好きだ。

 穏やかな態度が好きだ。ニコニコ笑っている顔が好きだ。理性を重んじる姿勢が好きだ。負け続きなのに手を替え品を替え新しいゲームを持ってくるのが好きだ。ミステリについて語る時いきいきし過ぎて台詞のページ占有量がバカになっているところが好きだ。自分のことを語りたがらないところが好きだ。試し行為のようなうざったい言動が好きだ。キザったらしい所作の癖が好きだ。時々抜けたところがあるのが好きだ。

 好きなところを一つひとつ列挙していったら、いくらでも無限に話し続けてしまえるのではないかと錯覚するほどに、古泉一樹のことが好きだ。

 涼宮ハルヒシリーズに出会い、古泉一樹を好きだと思ってもう10年以上になる。原作を読み、アニメを鑑賞しては、「そうそう、こういうところが好きなんだよ」と再確認したり「今まで気づいていなかったけど、こんな良いところもあったんだなあ」と新たな魅力に気持ちを深めたりを繰り返してきた。

 そんな中、ふと疑問に思った。
 今述べたような好きなところが変質して失われたなら、私は古泉一樹のことを好きではなくなるのだろうか? 困ったことに、冷めたり嫌いになったりするような未来があまり想像できない。むしろ「それはそれで可愛い!好き」「一周回ってアリ!好き!」となるのが目に見えている。あばたもえくぼ、というやつだ。

 つまり、上で述べたようなことは「好きだから好き」、そもそも対象を好きだから好ましく思う、そういう心の動きをしているのであって、『好き』の本源的な理由とは異なるということなのだろう。

 だが、そうなると次の疑問が浮かぶ。あらゆる要素を肯定させる、大元の好きという感情はどこから来たんだろう?
 私はどうしてこんなに古泉のことが好きになったんだろうか?

 そんなわけでこの文章は、自分の『好き』の原点を探る試みである。

自分語り乙

 私が『ハルヒ』を最初に認識したのがいつのことだったか、正確なところは覚えていない。ニュースで流れていた秋葉原のダンス映像だったかもしれないし、ニコニコの組曲だったかもしれない、流行に敏感なクラスのオタク友達の会話にのぼったのを聞いたのが最初だったかもしれない。

 どうあれはっきりしているのは、最初の認知では古泉一樹の存在は引っかかっていなかったということだ。知っていたのは「やれやれ系男主人公のキョン」と「ハルヒ、長門、みくるの三人のヒロイン」、あとは辛うじて「WAWAWAの人」…ぐらいだろう。萌え系のラノベで学園ものらしい。ネットの遠くの方からヒロイン論争めいた応酬が聞こえてきていたから、多分ラブコメなのだろう。ふうん。

 古泉の存在をはっきり認識したのは、当時好きだったとある動画投稿者の再生リストをローラーする中で、「まっがーれ↓スペクタクル」の歌ってみた動画に出会った時だった。それまでも名前の文字列やビジュアルを目にしたことはあったのだろうが、いま覚えている限りでは、古泉に関する最も古い記憶はこの地点になる。
 そこから一目で転がり落ちるように沼へ……ということはなく、この時はまだ「キャラソンがあるってことはこの子もメインキャラなの? へえ知らなかった(世界が崩壊ってどうした? 比喩?)」ぐらいの感想だったはずだ。ともかく、この時点で私の『ハルヒ』知識の中に「古泉一樹というキャラクターがいて、超能力者で、世界がなんやかやしているらしい」が加わった。

 実際に物語に触れるのはもう少し先、また別のきっかけを得てからになる。本の趣味が合う友達が『ハルヒ』を読んでいるのを見かけて、おもしろい?どんな感じ?という話になって、貸してもらえる運びになった。
 人生を変えた瞬間である。

 ところで話は変わるが、この頃の私にとって最もホットな作品だったのが『SeraphicBlue』というフリーゲームだ。想定プレイ時間50時間超えの長編RPGで、当時の個人制作ゲームとしては大作の部類に入るだろう。生まれながらに世界を救う使命を背負った主人公が、世界を滅びに追いやる悪を打ち倒し、物語は閉じられる。

 作品を特徴付ける要素として、陰鬱な世界観、厭世的な思想、厨二病全開の台詞回し…等々いろいろ挙げられるが、特筆すべきは主人公が世界を救う動機付けにあると思う(ネタバレどころではない作品の核に関わるため詳細を語りにくいのだが)
 たとえば、愛する家族や仲間。名誉欲や野心。悪を憎む正義の心。生きていたいという原始的な欲求。
 主人公にはいずれもない。もとより持っていないか、一時得たかと思っても奪い去られてしまう。主人公には世界を救いたいと思う理由はなく、代わりに義務と責務がそこにある。──にもかかわらず、結末において彼女は世界を救う道を選ぶ。

 そんな物語に衝撃やら感銘やらを受けた私の脳は(10年以上経っても未だに抜け出せないほど)すっかりやられてしまっていて、そしてそんな土壌に降ってきたのが、ある日突然世界のために戦う使命を負うことになった、古泉一樹という存在だった。

やっと古泉の話

 私は当時刊行されていた『憂鬱』~『分裂』まで友達に貸してもらい(ありがたすぎる)、順番に読み進めた。また、少なくとも『溜息』ラストの9組の演劇のあたりを読んでいる頃にはもう既にだいぶ限界オタク化していた。ならば原点となる好きは『憂鬱』~『溜息』に見出せるはずだ。
 という視点で読み返した結果、
「世界を守るために頑張っているのが好き」
という結論になった。こんだけ前振りしてすごい無難なとこいったな。

 実はこれだけではまだ言葉が不十分で、正確に言うと
守りたいという世界像が抽象的で、正直あまり共感できないにもかかわらず、世界を守るために頑張っているのが好き」
なのだ。「そんなことのために、本当にそんなに頑張れるの?」という驚きと感動、それが私が古泉一樹を好きになった原点だと考えている。

「知ってしまった以上はなんとかしなけれはならないと思うのが普通ですよ。僕たちがしなければ、確実に世界は崩壊しますから」

 キャラソンの台詞にも採用される、古泉一樹というキャラクターを象徴する台詞の一つである。

 何故世界が崩壊してはいけないのか? 世界が崩壊してしまうとどのように困るのか?
 色々な答え方があると思うが、多くの理由は「生きていたいから、死にたくないから」ということに集約されるだろう。唯我論を持ち出さない限り「まず世界があり、そこに<私>が生きている」という認識はたいていの人々が持ち合わせているはずだ。世界がなくなったら、私は生きていることができない。

 古泉も同じように、生きていたいという自己保存の欲求のもと、世界を守ろうとしている、そう考えていいのだろうか?
 普通に考えてそうだろう、と頷きたい気持ちはある。
 しかしそれにしては、些細なことではあるが、違和感を抱くような描写をされているように思えてならないのだ。

 自殺の可能性について触れていること。
(自分の命を絶ってでも逃れたいような苦痛が存在する。命よりも優先する大事なものがある)
 新世界創造に際しての諦めの良さ。
(まさに今この瞬間、世界が取り返しのつかないことになろうとしているのに、ハルヒ本人への直談判を試みようともしない。長門は最後までキョンに戻ってくるように働きかけ続けた。朝比奈さん(小)だってさよならは言わなかった。古泉は戻ってきたら嬉しいというような心情は明かしつつも、「そっちに自分が生まれたらよろしく」と諦めた別れの言葉を告げている)

 自殺は可能性の話だし、手に負える範囲までは頑張るけど一定ラインを越えたなら潔く…となってしまうのは、心理としてありえないとまでは言い切れない。
 それでも何だか釈然としない…そう思っていた時、『溜息』のこんな発言を思い出した。

「ですが、僕は今まで暮らしてきたこの世界が割と好きなんです。様々な社会的矛盾を秘めていたりはしますが、それは人類がいつかどうにかできることでしょう。問題なのは、天動説が正解で太陽は地球の周りを回っている、みたいな改変が起きることです。涼宮さんにそんなことを信じ込ませないように、僕たちは何とかしようとしているのです。あなたもそう思ったから閉鎖空間から戻ってきたのでしょう?」

キョンがキスした時そんなことは考えてなかったと思う。

 この台詞は、『溜息』後半に入り、フィクションの映画と現実の境目があやふやになり始めている事態を解決するため、キョンに協力的になってもらおうと説得を試みている場面である。

 もうちょっと……もうちょっと共感を得られそうな例なかったんか……?
 私が理系分野に明るくないせいかもしれないが、現実が天動説が採用された世界に変化することで何がどうなるのか、どうも直感的にピンとこない。「天体の運行がアレでソレしたピタゴラスイッチの結果地球が爆発します!」とか「宇宙ステーションが落ちてきます!」とかもう少し噛み砕いてもらわないと「その法則が成り立って回る世界なら別によくない?」と思ってしまう。「荒れ果てた無人の灰色世界と現実のこの世界が入れ換わってしまいます!」の方がよほど恐怖と危機感を煽られる。

 これだけならまだ説得下手くそか?で済むのだが、そういう視点で思い返してみれば、『憂鬱』でも似たようなことを言っていた。

「涼宮さんが超能力なんて日常に存在するのが当たり前だと思ったなら、世界は本当にそのようになります。物理法則がすべてねじ曲がってしまいます。質量保存の法則も、熱力学の第二法則も。宇宙全体がメチャメチャになりますよ」

 宇宙≒世界という連想ゲームに引っ張られて、(物理法則が乱れた結果として)既存の物理法則に依拠するあらゆる物がダメになって社会が大混乱に陥るとか、地球が人の住める環境ではなくなるとか、そういうメチャクチャを想定していたのだが、ここに至って、古泉が世界の崩壊を防ぎたいと思う理由について、ある仮説が生まれてしまった。
 コイツまさか、その結果の余波で人命や社会がどうとかでなしに、文字通りの意味で物理法則がねじ曲がることそれ自体を恐れているのか……?

【仮説】
・古泉は、質量保存や熱力学の第二法則や地動説のような、人類が歴史の中で発見し積み重ねてきた世界の法則が改変でねじ曲がってしまうことを何よりも恐れている
・古泉は「自分の頭がおかしくなった」と思ったら自ら死を選ぶような人間である

→「自分の頭がおかしくなる」≒あるべき世界の法則と自分の現実認識に齟齬がある状態
→古泉は世界の法則がねじ曲がってしまったなら死を選ぶ≒物理法則がねじ曲がった世界では生きていたくない

 ……困った。
 このように考えると、新世界創造の時に妙に諦めが良かったことに説明がついてしまう。

 世界の物理法則が古泉の知るあるべき形に保たれていることが、自分の生き死によりも大事な価値基準なのだとしたら、確かに、二人に(というよりはハルヒに)友情を感じていても、何がなんでも戻ってきてほしいという気持ちにはならないだろう。
 ハルヒの現実世界への帰還は、物理法則が改変される可能性が隣り合わせの日々の継続を意味する。対してハルヒが現実世界を放棄したなら、少なくとも改変リスクとはおさらばできる。その結果、たとえ世界そのものがなくなってしまったとしても。(うまくすれば、賭けの結果、古泉は物理法則が改変されるという、本来ありえないはずの恐怖に怯えずに済む元の日常を取り戻せるというメリットもある)

「このままいくとあなたがたとはもう会えそうにありませんが、ちょっとホッとしてるんですよ、僕は。もうあの《神人》狩りに行くこともないでしょうから」

 それはホッとするわけだよね。(神人の存在、意味わかんなすぎるもんな……)

終わりに

 正直、書いていて自分でもちょっとどうかと思う。ちょっと何を言っているのか全然わからない。が、しかし、本人の発言を繋ぎ合わせたら何故かこんなふうになってしまった。
 私から言わせてもらうと古泉の方こそエキセントリックな矛盾の塊である。

 想像もつかないような行動原理でもって、世界のために身を砕く。
 もちろん細かな事情は異なるが、『SeraphicBlue』の主人公と古泉一樹はその一点によって私の頭の中で緩く結びついている。
 「もしも私が同じ立場だったらどうするだろう?」そんな想像も理解も遠く及ばない共感不能な他者であるからこそ、ほんの一欠片でもいいから理解してみたいと思ってしまう。
 そう欲望することが、私にとっての本源的な『好き』ということなのだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?