ホラーとは陽キャと陰キャどちらのものなのか

先日終電を過ぎて駅から家まで歩いている時のことである。
普段は全く感じないのだが、その日はなんだか曇っていて月が隠れていたからか世界が薄暗く、いかにも彼岸に連れ去られそうな雰囲気の夜であった。
筆者は月の子なので、夜の方が生きやすいと思っているくらいの吸血鬼なのだが、物理で対処できないお化けは元来苦手である。
よって、魔除けではないが、お化けというもののルーツに迫ることで論理的に思考の中から撃退することができるのではないかと思い至った。
お化けとは脳の錯覚である。そうと理解していても錯覚してしまうのだから、錯覚しないために事故を強く保とうという自己暗示である。
これはその時に考えたことの備忘録である。
そもそもホラーとは語り手と読み手、どちらが楽しむためのジャンルなのだろうか?
そしてそれらの語り手と読み手は陽キャ陰キャどちらに属するものなのか。
というわけでまずお化けとはどこから出てきた概念なのかから語る。
脳が暗闇にないはずのものを見出す錯覚である、というのが科学的見解だが、では原初の科学が発達する前の世界においてそれはどういう扱いをされていたのか。
これは各地の神話伝承を見ればある程度体系化できるのだが、とりあえずは日本の例だけで今回は語らせていただく。
さて、まずお化けというものの中には種類がある。そしてそれは大まかに幽霊と妖怪の二つに大別できる。
お化けお化けとさっきから言っているものの、普段イメージするおばけは幽霊や悪霊的なスピリチュアルなもの、妖怪はあやかしやもののけといった実体を伴った妖精のようなものである。
だが、どちらも記録として残されているのはおそらく古事記や日本書紀あたりが最古ではなかろうか? それまでの伝承は口伝がメインだったはずである。この口伝については重要な糸口なので、後述する。
幽霊は先に述べたように悪霊的な側面が強い。守護霊という例外も存在するが、それは後世の創作に出てくる概念で、幽霊は呪ってこなくてももっぱら薄気味悪いものとして扱われていた。
結局は脳の錯覚でしかないから、ふわふわとしたものでしかないのだ。
対して妖怪は、元来神の零落した姿として描かれることが多い。土蜘蛛や八岐大蛇などがメジャーだろうか。大江山の酒吞童子などもこの例である。
こちらは、歴史的に考えるとそもそも神というものがなんらかの有力部族や英雄的人物を美化した存在であることから紐解くに、成り上がったその存在の専横や横暴から討伐するための大義名分としてエピソードを作るにあたって、悪しきものであるというレッテル張りのために用意された概念であろう。
もちろんそれぞれの記録的な原典はそのあたりになるが、歴史が進むにつれてそれぞれの受け取られ方も少しずつ変わっていく。
平安の世になれば、幽霊というのは実在の人物が死後に恨みを晴らすためになるものである=悪霊という構図が定着した。これは宮中が信心深くまた皆薄暗い部分を持ち合わせていたからこその共同幻想であろう。
それに対して妖怪は鵺や橋姫に代表される人々に何らかの被害を与える実体のある怪物として描かれる。もしくは武勲を表すためにでっち上げられた場合もあるのだろうが、まぁそのあたりは因果関係の前後でしかない。
ここで重要なのは、幽霊というのは誰かを驚かすため、もしくは悪感情を表現するために人々の口に上る=口伝で広がる存在であり、そこに創作的要素はないという部分である。
妖怪はどう考えても創作上の存在である。そんな化け物がいるわけがないのだから。
ではこれらを陽キャ陰キャ的性質で整理するとどうなるか。
創作的な口伝は陽キャ的な性質を孕む。元来抒情詩に代表されるように、口伝というのは自慢話と結びつくものだからだ。
だが、今回の口伝は創作的な要素が薄い。ここでいう創作的とはすごさや面白さを伝えるための酒の席で語られるようなエンタメ性を持つかどうかである。
幽霊の口伝に存在するのは、聞いたものを怖がらせようとする負の感情だけである。この陰湿さは陰キャ的と言えるだろう。
対して妖怪の討伐話という創作についてはどうか? これは体育会系と言ってもいいが、武勲話自慢話なのだからどう考えても陽キャ的である。
精神的なことを扱う幽霊、物理的なことを扱う妖怪という区分でも似たような論を立てられるだろう。
では、それぞれの存在がまた時代を進めるとどのように扱われるようになっていくか?
江戸時代には妖怪絵というものが流行った。これはこんな妖怪がいたら面白おかしいだろうという完全に創作的なものであって、人の心胆寒からしむべしとして作られたものではない。
つまり、この前スタバでこんなフラペチーノ飲んだんだけどさーというのと大して差がない面白い話として妖怪が扱われるようになっていったのである。
もちろん陽キャ的である。
それでは幽霊はどうなったか?
江戸の頃には百物語というものが流行するようになっていた。中には妖怪的なエピソードもあるが、幽霊的なつまりスピリチュアル的なエピソードの方が多い。
ここでいう妖怪的、幽霊的とはつまり、物理的に殺しに来る怪異か、祟り殺してくるような怪異かという差である。
幽霊に実体はないのだから、百物語における物理的に殺しに来る妖怪的なものは完全なる創作である。つまり面白さのためではなく、おどかすためだけに作られた怪異である。
幽霊的なものは、殺されるわけがないという前提の上で、でもそうだったら怖いなと言うスリルを味わうものである。
ここで、差異が出た。妖怪的なものは語る側が面白いものであり、幽霊的なものは語られる側が面白いものなのだ。
妖怪絵は語る側が双方楽しまんとして作っているのでどちらにも属するが、百物語という口伝的性質をもつイベントでは、明確に語る側と語られる側で面白がる物語が分かれる。
では、ここから転じて現代的なホラーとは、どのような性質を持つのか。
先日カクヨムで大流行りした「近畿地方」などは、モキュメンタリーという語り手の存在する口伝的な記録を書きつけた体で作られている。
つまり、語られる側がスリルを味わうために読む以上に、語り手側がおどかそうとして語っているのである。
有名な怪談というのは、おそらく記述されるのはあとからで、もとは怪談師が語ったものだったり、学校の七不思議のように噂話だけで蔓延するものではないだろうか?
つまり、語られる側にそれを聞く聞かないの選択肢が与えられることは少なく、語る側が能動的に相手を驚かす権限を持っている。
文書による記録であれば語られる側に読む権利が自由意志的にあるが、発話によるホラーには相手にしゃべるのを辞めてもらうという別のアクションをすることでしか止められず、避けること自体はできないのである。
つまり現代的ホラーというのは語り手側が語られる側を驚かせ怖がらせるための娯楽であり、読者を選ぶというのはこういう構造によるものであるのだ。
怖いもの見たさというのはすべての人間が持っている感覚であるが、それにも段階があり、ホラーが苦手というのはこの段階を無理やり超えた話を語り手側が振ってくるその仕草が苦手というのも存在するのである。
まぁつまり何が言いたいかと言うと、陽キャ的な俺の話でお前がリアクションをするのが楽しい! という感覚で接せられると陰キャとしてはきついものがあるという話である。
ホラーなど、お前らがおどかそうとして作っただけの話だが? 怖がったら思うつぼなんだろ? だったら怖がるのはもうやめるが???
妖怪絵のように、こんな奴らがいたら愉快だよね、というタイプの伝奇的なお話が恋しいものである……。
以上、ビビりが怖い話が怖い由縁を誰かに責任転嫁することで乗り切った話。

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