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【ソシガヤ格闘記】翻訳家の精神こそ自分に必要なのか、と感じた日。

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

なぜこのような形で発信しているんだろう。理由も特に考えず、ここまで続けてきた。言葉を発する、しないと何を思っているかすらわからない。時に僕の思いは、僕にすら分かってない。でも言葉に起こした瞬間に、自分の自我が吹き込まれたように、自分に直面する。

歴史の中でも発信と記録は長い間続いてきた。
言葉や文字の誕生、印刷技術の発展、情報通信の発展、レイテンシーの光速化、生成Agentの誕生、それぞれの時代で表現する手段がどんなに変わっても、発信することを人間は続けてきた。むしろ生存のために、色々なメディアを活用して後世に残していかねばならない。noteで発信することは自己満足であると同時に、自分の後世へのレターとして残している側面もあるのかのもしれない。

昨日は砧まちづくりセンターの所長、防災まちづくり長にご挨拶に行ってきた。お二方とも魅力的なかたで、対話して魅了された。まちづくりセンターの「まち」が平仮名であるのは、「町」(あぜみち)から連想されるかららしい。四角形の囲まれた土地の大きさを表現する町(あぜみち)という単位からは、形の持つ何かを連想する。まちづくりセンターはハードインフラのような側面にとどまらない活動をすることから、まちを平仮名にしたのこと。正直よくわからなかった。

携帯の修理や、郵便の相談など、日常の些末な相談事をしにまちづくりセンターに来る方が多いらしい。時に、車の修理の依頼や、時に身内話の相談、時に他人への対応の仕方など、いわゆる萬屋である。でもそんな形がすごく理想だし、自然に沿った形でいいなと率直に思った。

人と人を繋ぐ活動=まちづくりと定義した場合に、まちづくりをする意味ってなんだと思う?

所長から無茶振りで質問を受けた。所長の答えは防災に絡めた答えだった。
でもそれもまだ狭い気がした。まちづくりをする理由は、僕たちが生きるためなんじゃないかな。その中の一つに、防災も入る。生命を紡いでいく鋭意の集合体によって町が形成されるのであって、まちの編集をすることこそまちづくりである。ここまで反論はしなかったが。

編集というと、僕は勝手に翻訳を連想する。最近話題になっている某野球選手の某通訳の存在が理由ではない。単純に翻訳者の思考に興味があるからだ。編集や翻訳は、それを特定のコンテキストから特定のコンテキストに移すだけではない。その行為の中に絶妙な難しさ、並びに面白さが発現する。むしろ編集も翻訳もどちらもその間に新たな世界を生み出す、創造行為だと解釈してもいいはずだ。

自分の好きな書籍に『翻訳問答』という本がある。シリーズになってて、翻訳者ふたりがサリンジャーやポーなど、海外文学7作品の冒頭を翻訳し、ひたすら語り合っている。言語の面白さと翻訳の難しさがさまざまな角度から伝えられて、目に見えない苦悶や裏話が載っている魅力溢れた本である。最近話題になっている『傲慢と偏見』や『老人と海』などもまた、上手な日本語の選択がなされている。タイトルだけでなく、助詞の使い回しや翻訳しきらない行為の選択など、全ての言葉と対峙している感覚に陥る。ここでは語り尽くせないので、ぜひ読んでほしい。

まちづくりももっとそうあって良いはずだ。
編集や翻訳の感覚が自分にはピッタリくる。時に手を抜いたり、時にこだわってみたり。全部が均一化する必要はない。グラデーションをつけて、それぞれの人に合った街をそれぞれの角度で意味づけをしていく。その感性が重なり合ったときに新たな目が生まれてくる。最初から全部作る、開発するといった感覚になると気がもたない。まちを編集する、今あるものを再翻訳するといった感覚を持っているだけでも、肩の力を抜くことができるかもしれない。そうふと感じた。



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